参考:セアカゴケグモに咬まれた場合の症状と対応
(Vol. 18, No. 9: 1997年9月号)
はじめに:1995(平成7)年11月に大阪府下で多数のセアカゴケグモが発見され、毒グモということで大きな社会問題になった。発見直後から生息調査、毒性試験等が実施され、セアカゴケグモの生態や人に対する影響について、その一部が明らかにされた。形態や毒素成分の解析から、大阪府下に生息しているセアカゴケグモはオーストラリア由来であるとほぼ断定された。オーストラリアでは毎年数百名がセアカゴケグモに咬まれており、臨床症状や治療法に関する研究は非常に進んでいる。もしこのクモに咬まれた場合には、オーストラリアでの経験がそのまま生かされると考えている。生息調査の結果、セアカゴケグモはすでに大阪府に定着したと思われ、今後、人がこのクモに咬まれることが十分に考えられる。ここにセアカゴケグモに咬まれた場合の症状と対応について解説するので、臨床の場に生かされれば幸いである。
セアカゴケグモの生態:オーストラリアと大阪府のセアカゴケグモの分布状況、生息域には大きな違いがある。オーストラリアでは人家に接した庭やガレージなどに常在し、時には家の中にまで侵入することがあり、人がセアカゴケグモと接触する機会は多い。一方、現在の大阪府のセアカゴケグモは、ある特定の限局された地域(墓地、埋立地、道路に沿った側溝など)に密集して生息し、人家とは離れている。これは、オーストラリアのセアカゴケグモが大阪府に侵入してから時間が経っていないからと考えられる。しかし、このクモは生命力が強く、時間と共に生息域を拡大する性質があり、人の居住地域に侵入して人を咬むことも十分にあり得る。セアカゴケグモは攻撃性がなくおとなしいが、人が偶発的に触れると咬まれることがあるので、注意が必要である。
セアカゴケグモの毒性:毒腺の蛋白分画中、人に対し毒性を示すのはα−ラトロトキシンという蛋白である。この毒素は神経毒で、哺乳類に対し活性を示す。α−ラトロトキシンは神経系全般にわたって働き、神経末端よりアセチルコリン、カテコールアミンなどの神経伝達物質の放出を促し、再流入を阻止することにより神経末端の神経伝達物質を枯渇させる。したがって、人がセアカゴケグモに咬まれると、運動神経系、自律神経系が障害され、種々の症状が現れる。
症状:
局所症状:咬まれた直後は局所の痛みはほとんどなく、あっても咬まれた部位に軽い痛みを感じるだけである。刺し口が一つ、あるいは二つ見つかる場合もある。また、咬まれた部位の周辺に発疹を見ることもある。局所症状が現れるまでの時間は様々であるが、通常、5〜60分の間である。局所痛として現れ、次第に痛みが増強する。時間と共に痛みが咬まれた四肢全体に広がり、最終的には所属リンパ節に及ぶ。これに要する時間は30分〜数時間である。局所の発汗も起こり、しばしば熱感、掻痒感も伴う。しかし、局所症状の最も大きな特徴は痛みである。
全身症状:セアカゴケグモに咬まれて全身症状を示す者はごく一部である。咬まれてから約1時間で全身症状を示すこともあるが、一般には徐々に進行し、12時間以上かかることが多い。重症になるのは小児、高齢者、虚弱体質の者である。主要な全身症状は痛みである。痛みは全身に及ぶこともあり、咬まれた部位の近くの躯幹だけに限局することもある。したがって、上肢を咬まれた場合、強い痛みは顔、首、胸部に生じ、胸部痛がしばしば心臓発作による痛みと間違われることがある。一方、下肢を咬まれると、強い痛みは腹部に生じ、急性腹症とよく似た症状を示す。躯幹のどの部位を咬まれても腹痛は起こり得る。筋肉のけいれんが主として腹部に認められることがある。著しい発汗が全身に、あるいは咬まれた場所とまったく違った部位に限局して認められることがある。全身の筋肉の弛緩が起こるが、麻痺にまで至ることは稀である。他の主要な症状としては、嘔気、嘔吐、発熱、不眠症、めまい、頭痛、全身の発疹、高血圧、下痢、喀血、呼吸困難、排尿困難、重度の開口障害、食欲不振、眼瞼浮腫、全身の関節痛、全身の震え、不安感、羞明、流涙、精神異常、徐脈や頻脈、括約筋のけいれんに続いて起こる尿閉などである。
乳幼児が咬まれると痛みのため泣き叫び、間欠的にけいれんし、症状の進行は早く、重症になりやすい。腹部の痛みと硬直はしばしば認められる。熱がないのに強い痛みが突然起こり、局所の発疹や著しい頻脈が乳幼児に認められれば、セアカゴケグモに咬まれたことを疑わなければならない。
予後:セアカゴケグモに咬まれてもアナフィラキシーショックを起こすことがないので、適切な診断と治療を行えば死ぬことはない。
ほとんどの患者は少量の毒素を注入されるだけで、全身症状を呈したため治療が必要となるのは約20%と少ない。これらの患者は、もし治療を行わなくても、多くは1週間以内に回復する。稀に死亡することもあるが、これは16歳以下の子供、60歳以上の高齢者や何らかの基礎疾患を持ったものに起こる。オーストラリアでは、1956年に抗毒素が導入されてからは1名の死亡者も出ていない。オーストラリアの死亡例をみると、咬まれてから死亡するまでの時間は6時間〜30日までと幅があるが、24時間以内に死亡したのは、生後3カ月の乳児に起こったこの6時間の1例(1933年に報告)だけである。
診断:治療を開始する前に、セアカゴケグモに咬まれたことを確認しなければならない。咬まれた後にセアカゴケグモを見つければ診断は容易であるが、小さな子供が腹痛を起こし、泣き叫んでいるだけの状況では診断は困難である。診断に役立つ検査はないので、臨床診断だけが頼りである。
患者が全身に強い痛みを訴え、痛みの原因が他になければセアカゴケグモに咬まれたことを疑わなければならない。特に腹痛を起こし、圧痛がないのに腹部の硬直が認められれば疑わしく、急性腹症と間違ってはいけない。熱がないのに著しく発汗したり、他の症状と共に高血圧が認められれば診断に役立つ。
治療:咬まれた局所を包帯等で強く圧迫するのは、痛みを増強させるので勧められない。局所をアイスパックで冷やすのは、痛みをいくらか緩和するかもしれない。
それぞれの症状に応じて対症療法を行っても、効果のないことが多い。痛みに対して鎮痛薬の服用はもちろん、モルヒネやペチジンの注射でも効果が認められない場合がしばしばある。すべての症状に対して最も有効なのは、抗毒素による治療である。
局所症状だけに止まれば抗毒素は必要ないが、セアカゴケグモに咬まれたことが明らかで全身症状が現れてくれば、できるだけ早く抗毒素を注射する。しかし、最初は診断がつかなくて、症状が出てから時間が経った場合でも抗毒素を使うべきで、咬まれてから1週間経過しても抗毒素は有効である。筋肉内注射で投与し、通常1時間以内(しばしば20分以内)に著明な効果が現れる。オーストラリアのCSL社製のセアカゴケグモ抗毒素を1アンプル注射すれば大部分の患者が回復するが、それでも効果が現れない場合にはアンプルを追加する。5アンプル以上を注射することもある。小児にも成人と同じ量を使う。
オーストラリア製の抗毒素も馬血清から作られているが、アナフィラキシーを起こすことはほとんどない。それは、この抗毒素が高度に精製されており、筋肉内に注射するためである。オーストラリアでの調査によると、セアカゴケグモに咬まれて抗毒素を注射された2,062名中、アナフィラキシーを起こした者はわずか11名(0.54%)で、死亡した者はいなかった。11名中、5名は抗毒素の原液を静注した者で、これは禁忌である。もしどうしても静注が必要な時は、抗毒素を生理食塩水で約10倍に希釈して使う。しかし、アナフィラキシーの危険は常につきまとうので、抗毒素の注射をする前に、これに対する準備を整えておくことが必要である。アドレナリンをすぐに注射できるように準備して、さらに蘇生装置を用意しておく。
セアカゴケグモ抗毒素血清は、下記の機関に保管されているので、必要な時は連絡すること。(註)
註:1997年9月当時の情報で、現在の抗毒素血清保管機関ではありません。
国立感染症研究所 TEL 03-5285-1111
三重県立総合医療センター 0593-45-2321
大阪府立病院 06-692-1201
沖縄県立中部病院 098-973-4111
おわりに:セアカゴケグモに咬まれた時には特徴ある痛みが現れるので、診断の助けになると考えられる。急性腹症や心臓発作と間違われることもあるようなので、鑑別が必要である。特に、乳幼児が咬まれた場合には、慎重に診断しなければならないだろう。
大阪府下で捕獲されたセアカゴケグモを用いた動物実験で、オーストラリアの抗毒素は劇的な効果のあることが認められている。これは、アナフィラキシーショックを起こすこともほとんどないので、全身症状が現れれば積極的に使用すべきある。
大阪府立公衆衛生研究所ウイルス課 奥野良信