礼文島エキノコックス症の自然史

1936年に礼文島出身の女性が本症と診断されて以来、地元住民、道、道衛研、北大、札医大などの関係者による徹底したエキノコックス対策の結果、1970年に、(1)生活用水の水源をほぼ 100%に近く簡易上水道にすることが出来た。(2)終宿主であるキツネ、イヌ、ネコ、中間宿主である野ネズミの駆除を完了した。(3)すでに掌握されている患者の中に昭和21年(1946年)以降の出生者がいないことを理由に礼文島における事実上のエキノコックス対策は終了した。しかし、その後北海道本島での対策に追われ、実態は不透明なまま残されてきていた。礼文島における本症の自然史を明らかにし、北海道本島での対策に資するべく、新たに追加された貴重な資料を基に礼文島エキノコックス症について再検討を行った結果、これまでの定説を覆えすいくつかの事実が発見されたので報告する。

 1.礼文島出身者および在住者のエキノコックス症の発端
第1症例は、小樽在住の28歳の主婦であった。1936(昭和11)年6月、食後の上腹部膨満感があり胃炎として近くの医院を受診し、そこで肝腫瘤を指摘され、同月下旬北大第一外科に入院、同年10月胆嚢と肝右葉部分切除を行ない、多房性エキノコックス症と診断された。感染巣の完全摘出はならず、昭和29年には黄疸が出現し、昭和33年に上腹部に小児頭大の肝腫瘤が認められ、1960(昭和35)年死去した。彼女は礼文島香深村の出身で、そこで20年過ごした後小樽へ嫁ぎ(昭和4年)、以後帰島していない。昭和4年以前に感染したことになる。

第2症例は、船泊村の26歳の女性で、昭和16年に北大第一外科で肝右葉の部分切除術を受けた。第3症例は、23歳の礼文島出身の男性で、昭和13年に軽度の腹痛と腹部膨満感を自覚したが徐々に増大し、右上腹部に円形、大人頭大、軟骨様硬、表面凹凸不整の腫瘤が認めらた。第4症例は、香深村の43歳男性で、昭和15年頃右季肋部に鶏卵大の腫瘤に気付いていたが、昭和22年発熱と鼻出血、血便があり昭和23年に死亡した。第1、2症例は摘出肝組織から、第3、4症例は、剖検により本症が確認された。第2症例以後、即ち昭和15年以降、本症と礼文島との地理的関連性について注目されるようになったが、本格的な対策と調査が行われたのは昭和23年以降である。しかし、その頃にはエキノコックス感染は既に終了していたというのが本稿の要点である。

 2.患者認定時から死亡までの期間
1948(昭和23)年より開始された住民検診で発見された礼文島の症例は、肝臓腫大、肝腫瘤を指標として診断されてきたので、エキノコックス症としては晩期〜末期に相当する症例が大半を占め、それに昭和27年より血清診断が加わったが、肝臓腫大があることが重要であることには変わりはなかった。本症認定時の年齢は、12歳〜81歳までと幅が広く、多くは30歳〜50歳の働き盛りの人達である。しかしながら本症の認定時の年齢は、本症の好発年齢を意味するものではない。131名の認定患者から健在の人、消息不明症例、手術症例は除外し、自然経過を示したと思われる症例について、生年により明治、大正、昭和生まれに区別し、74名の患者についての死亡時年齢および認定から死亡までの期間を整理した(表1)。

驚いたことに、本症の診断が確定してから死亡までは、明治、大正、昭和の生まれにかかわらずほとんど差はなく3〜5年で死亡していることが分かる。肝不全を自覚するようになって受診してからほぼ一定の経過で死を迎えていることになる。さらに明治生まれは60.9±9.8歳、大正生まれは44.6±8.9歳、昭和生まれは28.8±5.8歳と明らかな差が示され、本症の自然史を追及する動機となった。

 3.エキノコックス症の自然経過
昭和23年からの4年間で3,115名の住民検診受診者のうち90名(2.89%)に肝臓腫大を認めたが追跡可能で確認されたのが12名のみであった。当時の礼文島の人口から約300名の患者がいても不思議ではない計算になる。本症の自然経過を考える上で、礼文島での本症撲滅のために一生を捧げた柳原誠三博士は、本症を4期に分け観察するのが便利であるとしている。

潜伏期、不定症状期、完成期、末期の4期であるが、礼文島の本症に特徴的なのは、年齢を選ばず、自然治癒の傾向が認められず、長い経過を経て一方向的に末期に向かう臨床経過である。長い不定症状期では受診することはなく、完成期に至って初めて受診することが多いが、それから4、5年で末期を迎え死亡する。表1の意味である。生存者が既にいない明治生まれの認定患者についての検討を試みた結果、第2期(不定症状期)以降死亡までには30年〜40年の長い経過を要している場合が少なくないことが判明した。

 4.認定患者以外の本症および本症疑いによる死亡例の追加
礼文町関係分で肝臓疾患による死亡がある時期に集中していることに気付き、本症との関係を念頭に検討を加えた今回の調査で、我々の把握していなかった本症による死亡者、本症疑いによる死亡者が追加された。昭和12年〜昭和38年まで肝エキノコックス症の疑いの濃い67症例と肝エキノコックス症と診断されているが、未登録の14症例である。昭和12年〜昭和38年までに北海道エキノコックス対策協議会で確認されている礼文島関係の103名の本症による死亡者に、今回の81名の本症および本症疑い患者の死亡を追加すると、本症により約200名の島民が死亡していることになる。患者すべてが本症を意味しているとは必ずしも言えないが、(1)他の死因と比較しても一時期に肝臓疾患が集中していること(図1)、(2)既に認定されている患者の診断書のいくつかが肝硬変、肝臓癌などになっていること、(3)本症に対する住民検診を受けていないこと、(4)大多数(85%)は自宅で死亡していること、などからその可能性はきわめて高いと推測された。さらに、図1から明らかなように、老衰による死亡が肝臓疾患による死亡と平行して増減していることが注目される。

礼文島における疾患別死亡率の変遷(図1):1948年〜1963年までの毎年の死因の中から0歳〜2歳の乳幼児死亡を除外し、2年間をプールし作成した。高齢者の平均的死因(脳溢血と心臓麻痺)が1954年〜1958年にかけて減少傾向にあるのに対して、肝臓疾患と平行し老衰による死亡が増加し変動しているのが注目される。老衰には種々の疾患が含まれていると考えられるが、本症による死亡の可能性もあり本症による死亡は予想以上のものがあったと推測される。本症による死亡が落ち着きを示し出す1960年以降は脳溢血と心臓麻痺による死亡は急激な増加に転じている。結核による死亡の減少と合わせて典型的な死亡率の変動を示している中で、本症を含む肝臓疾患による死亡は特異なパターンを示している。

 5.エキノコックス媒介動物と感染源
本症の原因がエキノコックスであり、1924年〜1926年(大正13年〜15年)にかけて中部千島の新知島から移入した12つがいのベニギツネが持ち込んだものであり、本症の存在が明らかとなった時には、キツネに代わり野犬とネコが終宿主となり、ヒトへの感染を媒介したというのが、これまでの定説であった。1948年(昭和23)年に始まった本症に対する調査研究では徹底的に犬の捕獲解剖が行なわれた。昭和30年までに9回の解剖調査が行なわれ、犬251頭、ネコ78匹、キツネ2頭、イタチ2匹を解剖し、第6回目の調査で、ネコ2匹の腸管からそれぞれ1成虫と1体節を発見している。第9回の調査で、イヌ2頭の腸管から各1成虫が検出されたが、キツネとイタチからは検出されなかった。1955(昭和30)年頃にはエキノコックスの生活環は存在していなかったと考えられる。ヒトへの感染源となる程に多量の虫卵が排泄され、活発な生活環が形成されていたのは昭和15、16年あたりまでと考えられる。唯一の根拠は、昭和14年、15年生まれが最後の感染者である点である。その頃まではまだベニギツネは少数ではあったが健在であったと推定される。

大正13年から10年間は禁猟とし、繁殖をはかり、野ネズミ駆除とベニギツネの毛皮の収益をという一石二鳥のアイデアであった。放し飼いにされたベニギツネは新天地でのびのびと繁殖し、昭和5、6年には最盛期であったと言われている。床の下に巣を作るどころか家の中に入り餌を漁る有り様であったという。水飲み場はヒトと共同であり、そこでの排泄物がヒトの生活環境を広く汚染したのは当然のことであった。禁猟期間が過ぎると、島外者による密猟が行なわれ激減した。ベニギツネは毛皮となって売られもしたであろうが、毛皮はそのまま家の中に入り込み新たな感染源となったと考えられる。昭和10年以降にはキツネの姿は少なくなり、代わって野犬が勢力を誇示するようになった。キツネを中心にイヌ、ネコが汚染の輪を広げた様子は現在の北海道本島の事情と同じである。昭和30年〜35年にかけての本症患者の死亡のピークから逆算すると、おおよその感染時期を推定することできる。しかも濃厚感染についてである。その時期は、ベニギツネの移入と繁殖と密猟の時期に一致する。

 6.自然経過を示した本症患者の年齢と性差
認定本症患者および未認定本症患者に、本症疑い患者を加えた212名のうち、外科手術を受けたものおよび不明なものを除いた5歳〜87歳までの126名の死亡時年齢を集計した。

本症および本症疑い患者の死亡時年齢の分布(図2):10年ごとの死亡者数をまとめたのが図2である。30歳〜60歳代の働き盛りの青年男子は動物との接触が多く、若くして感染し死亡しているのに対して、女子は年齢とともに死亡者が増加している傾向がある。感染源との最初の接触は男性であり、それを家庭に持ち込んだのは男性であったと推測される。これは礼文島における男性の役割とライフスタイルによっていると考えられる。家族内発生が少なくとも13例認められるが、6例の親子例は父と子である。1例の母子例があるが、長男が先である。3例は夫婦例であるが、2例は夫が先に死亡している。3例の兄弟例がある。男性感染源持ち込み説は家族例からも言うことができる。礼文島住民のライフスタイルそのものの弱点が不意討ちされた結果であった。生活衛生環境の改善、ライフスタイルの改善によって大方は解決する問題であった。現在の礼文町はそれらの課題を見事に解決し、そのような過去があったとは信じられないモダンな観光の島に変身している。初夏〜秋にかけて60万人の観光客が訪れる観光地であり、レブンアツモリソウ、レブンウスユキソウ、レブンソウなどの高山植物が我々を迎えてくれる。もし再び礼文島が北海道本島と同じ状況になっても本症患者の発生は無いと予想される。

  おわりに
1965年に始まった北海道本島におけるエキノコックス対策は、何ら成果を上げることなく、全道一円を汚染地域にしてしまった。土地面積の広大さが何よりの問題であったが、それを加速したのがバブル経済であった。観光レジャー産業、酪農畜産業、水産業など多岐にわたる産業起こしのために自然が破壊され、産業生ゴミの不法投棄が行われ、野生動物、中でもキタキツネの人間世界への超接近を促進して来た。観光客の与える餌を当然のようにねだるキツネも出現し、どんどん人間世界へ入って来てしまった。そうさせてしまった。礼文島では1島1町であったからこそ島外密猟者?によって感染の終息ができたが、1島208市町村の北海道本島では不可能であるとの見方は余りにも悲観的すぎる。媒介動物対策については、野生動物との共生を課題に道がやるべきことと各市町村がやるべきこととの間の整合性を明記することから始めねばならない。礼文島での本症の自然史から得られた最大の収穫は、何の治療も受けることなく末期を迎え死んでいった約200名と推定される本症患者の自然経過であった。

この記事は北海道医学雑誌74巻2号(1999年3月発行)掲載予定の同題名論文の要約である。詳細についてはそちらを御参照下さい。

北海道大学医学部細菌学教室
皆川知紀 佐藤雄一郎
北海道大学医学部第一外科学教室
佐藤直樹 鈴木清繁 藤堂 省
e-mail tomi@med.hokudai.ac.jp

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