1型ヒト免疫不全ウイルス(HIV-1)治療薬剤に対する薬剤耐性変異の現状と推移
(Vol.21 p 142-143)
HIV-1感染症に対する抗ウイルス薬剤の開発と治療法はウイルス感染症治療のなかで近年最も進歩したものの1つであり、1986年のAZTの登場以来、今日までにヌクレオチド型逆転写酵素阻害剤(NRTI)6種類、非ヌクレオチド型逆転写酵素阻害剤(NNRTI)3種類、プロテアーゼ阻害剤(PI)5剤の合計14種類の薬剤が開発、実用化された。またNRTI 2剤とPI 1剤あるいはNRTI 2剤とNNRTI 1剤を組み合わせた多剤併用療法の開発により、感染者体内におけるHIV-1の増殖をほぼ完全に抑え込むことに成功し、病気の進行を抑制することが可能となった。この多剤併用療法は極めて有効であり、多剤併用療法が広く導入されるようになった1996年以降、米国においてエイズによる死亡率が減少つつあることは記憶に新しい。しかし残念なことに多剤併用療法を受けながらも効果が十分にあがらず、ウイルスの増殖抑制に失敗する症例も数多くあり、治療薬剤に対する耐性を獲得したHIV-1変異株の出現が主な理由として挙げられる。
HIV-1の逆転写酵素は転写精度が低く、遺伝子が突然変異を起こす頻度は複製サイクル1回ごとにおよそ3×10-5個と推定されている。さらにHIV-1は生体内において極めて活発に増殖し、生体内で新たに生み出される変異体は109-10になると考えられている。したがって単純計算で1日に生み出される新たな変異個所は3×104カ所に達すると予想される。このように変異出現頻度が極めて高いことから、全く薬剤を投与されていない状況下でも偶然ある種の薬剤に対して耐性を持つようなウイルスが存在する可能性がある。しかし通常薬剤耐性変異を持つウイルスは薬剤耐性変異を持たない野生株ウイルスに比べて宿主細胞に対する適合性が低いために、薬剤が存在しない限りは生体内で優位の集属として生き残ることは困難である。一方、薬剤存在下においてはこのような耐性変異を獲得したウイルスは速やかに選択され、適合性が低いにもかかわらず優位な集属として成立していく。そして薬剤投与を継続することにより生存に優位な新たな変異が付加されていき、しだいに薬剤耐性レベルが高まっていく。一般的に薬剤耐性ウイルスが出現すると患者の病気の進行が速まると考えられており、したがって薬剤耐性ウイルスの出現を押さえ込むことは抗HIV-1治療を進めるうえで重要な課題である。前述の多剤併用療法も耐性ウイルス出現を押さえ薬剤効果を維持する目的で始められたものである。また耐性ウイルスが出現した場合には治療効果の期待できる感受性のある別の治療薬剤に切り替えて、患者個体内のウイルス量を極力抑えさえ込むことが重要である。
国立感染症研究所エイズ研究センター第2研究グループではこのような薬剤耐性HIV-1出現に対して適切な治療薬剤を選択し、治療を行なうための基礎的研究を行なうことを目的に1996年11月より全国30の医療機関の協力のもと、抗HIV-1治療を受けている感染者の薬剤耐性変異HIV-1の長期追跡調査を行なっている。今までに約540症例の解析を行なったが、1996年11月〜1999年10月までの期間に複数回検査を受けており、ウイルス変異の推移を観察ができた201症例を対象に、薬剤耐性変異の最近の動向についてまとめてみた。
201症例の患者のプロファイルは表1に示した。対象症例の68%が汚染血液製剤により感染した血友病の患者であり、91%がB型の症例である。ウイルス遺伝子の解析はすべて患者血清中ウイルスRNAより行なった。RT-PCRにて解析対象であるpol遺伝子を増幅し、direct sequencingによる塩基配列の解析をABI377 auto-sequencerを用いて行なった。図1にNRTIsとPIに対する耐性変異獲得症例頻度とその推移を示す。白棒はそれぞれの症例の調査開始時の検査結果を、黒網棒は各症例の最終の解析結果、すなわち調査終了時、を集計したものである。なおNRTIsについては1次、2次耐性変異を、PIに関しては1次変異獲得症例を対象としている。グラフに示すようにNRTIsではAZTと3TCに対する薬剤耐性を獲得した症例の頻度が高く、また追跡期間中に増加していることが明らかになった。一方ddC、 d4T、 ddIに対する変異は前2剤同様に増加しているが、症例数は少なかった。この3剤に対して耐性変異を獲得した症例頻度の低さは、臨床現場で医師達が実際に経験する各薬剤への治療反応の高さとは乖離をしており、おそらくまだ明らかにされていない耐性変異が存在すると考えられる。一方PI 4剤に対する耐性変異を見てみると調査開始時の頻度は低いが、その後顕著に増加していることが分かる。PIは調査期間中の1997年に認可を受けており、期間中に使用症例数が増えていることを反映しているものと考えられる。同じ201症例を多剤耐性という観点からまとめてみたのが図2である(耐性症例の定義は図1と同じ)。3剤以上を多剤耐性変異とすると、調査開始時の結果を集計したものでは全体の15%を占めていたのが、調査終了時を集計したものでは実に40%に達している。以上我々の調査からは各薬剤に対する耐性変異株の増加とともに多剤耐性変異症例もこの3年間に確実に増加していることが明らかになった。おそらく薬剤耐性症例は今後も増加する傾向にあると推察され、さらなる追跡調査が必要と思われる。
薬剤耐性検査の結果、耐性変異が見いだされた場合は投与薬剤の変更が検討されるが、薬剤変更の時期については末梢血中のCD4陽性細胞数、血清中のウイルスRNAコピー数などの変動を加味して判断する必要がある。変更する薬剤の選択にあたっては耐性検査の結果を見て行なうことになる。冒頭に述べたように治療薬剤の種類は多いが、薬剤間の交叉耐性の問題があり、このことを考慮すると変更薬剤の選択肢はそれほど多くないのが実情である。特に多剤耐性症例では現在使用されている薬剤の範囲では効果を期待することが困難な症例が多い。現在欧米において薬剤耐性変異ウイルスを標的とした新たな薬剤、今までとは異なるウイルス構成タンパクを標的とした新たなクラスの薬剤開発が行われており、遠からず実用化され、わが国においても使用されることを期待する。
国立感染症研究所エイズ研究センター 杉浦 亙