周知のように、 1990年代に入って、 性感染症(STD)と妊娠中絶が若者の間で急増を始めた。エイズ予防に逆行する事態が進行している。我々が実施した種々の性行動調査によっても、 性交の若年化、 パートナーの多数化、 予防意識・コンドーム使用の低さが明らかになり、 これまでのエイズ予防教育の限界が示唆された。10年以内に近隣諸国で何千万人規模のHIV流行が生じ、 その影響がわが国に及ぶことを考えれば、 効果あるエイズ予防教育の開発と普及は、 国家的に急務の課題である。
しかし、 驚くべきことに、 わが国にはエイズ予防教育のエビデンスが存在しない。ライフスキル、 ピアエデュケーションなど様々な予防教育が輸入されてきたが、 これまでに行動変容効果が確認されたものはなく、 そのため、 効果の有無もわからない教育が、 延々と続けられる状況が続いている。今わが国に必要なことは、 エイズ予防教育についてエビデンスの蓄積を急ぐことである。
こうした認識に基づいて、 我々は、 若者に対する科学的予防science-based prevention開発に着手し、 幸いその最初の取り組みで行動変容効果を確認することができた。2002年に長崎県全域を舞台として行われたこのプロジェクト(長崎プロジェクト)は発展途上であるが、 わが国最初のエイズ予防教育のエビデンスとして紹介する。
長崎プロジェクトの概要:このプロジェクトは、 わが国で初めてcommunity-based social marketing(以下、 CBSM)の手法を取り入れたプロジェクトである。予防教育は2001年に我々が実施した長崎県下の高校生の大規模性行動調査と、 2002年までに実施した多くのフォーカスグループ(FG)インタビューのデータに基づいて設計された。そして、 同年10月に県下92の高校中44校が参加して事前調査(高校2年生対象)が、 次いで10月〜12月にかけて予防教育が実施され、 その効果が、 翌年1月に事後調査(高校2年生対象、 42校)によって評価された。予防教育は、 社会(地域)、 集団(学校)、 個人の3レベルで行われ、 社会レベルでは、 県との共同事業として、 全保健所が、 管内各所(コンビニ、 カラオケ等)に大小のポスターと名刺大パンフレットを配布し、 集団レベルでは、 50分モデル授業を9校で、 個人レベルでは、 実質13校で保健室来室者に情報提供を行った。
このプロジェクトの結果、 集団レベルの教育(モデル授業)によって、 「寝た子を起こす」ことなく、 セイファーセックスやSTD受診行動の促進効果が認められ、 また社会レベルの教育によって高校生の知識向上が確認され、 実効あるエイズ予防教育のエビデンスが獲得された(図)。
このプロジェクトの特徴は、 CBSMの手法や行動理論および準実験的デザインに基づいて、 科学的に企画・実施されたことである。まず質的・量的手法による綿密な調査(形成調査)を行い、 得られた若者の行動段階、 ニーズ、 ライフスタイルに関する情報に基づいて、 メッセージ・教材・資材を開発した。その結果、 大小サイズのポスターと名刺大のパンフレットが作成された。パンフレットの内容は、 エイズより身近な中絶、 クラミジアを中心に扱い、 地元データを盛り込むことで、 リスク認知の向上を図り、 また、 普及の遅れた知識に限定することで簡潔なものとした。ポスターはパンフレット内容の想起効果(プロンプト効果)を意図して、 パンフレットと共通デザインとし、 コンビニ、 カラオケなど若者の利用頻度の高い場所(チャネル)に貼付したが、 小サイズのポスターは広く普及し、 コンビニは名刺サイズパンフレットの普及に大きく貢献した。期間中に、 ポスター約 4,000枚、 パンフレット37,000部が配布された。モデル授業は、 50分で最大限の効果を得るために、 開発に半年をかけ、 パワーポイントの講義、 ビデオ上映、 トークで構成した。講義内容はパンフレットに準じ、 ビデオは既存の様々な画像情報から、 中絶とクラミジアに関し最もビジュアル効果の高い部分を抽出して作成した。トーク(オプション)は、 調査で判明した避妊やSTD予防に関する誤解などの解消を意図し、 コンドーム実演も行った。保健室プロジェクトは、 性的に活発な生徒の来室が多いことから着想され、 来室者に、 上述のビデオ、 パンフレットなどを提供した。
これらの取り組みは、 数量的に把握され(プロセス評価)、 またモデル授業の効果は、 量的のみならず、 FGインタビューによって質的にも評価した。
今後の課題:長崎プロジェクトは、 進化途上にあり、 改善すべき余地を残している。ひとつは、 発達段階や性別に応じた教育内容の多様化であり、 現在その開発を進めている。また、 予防は“行動”という社会的構築への介入であり、 その構築に関わる若者、 メディア、 教育、 保健医療、 家庭、 政治の問題解決に向けたパートナーシップの確立が不可欠である。しかし、 それは瞬時には実現しない。ひとつの介入が社会を揺さぶり、 問題(実例:避妊具配布禁止条例の発覚、 根強い「寝た子」論)と可能性(実例:保健所や保護者の意欲)が顕れ、 社会的構築が少し変化し、 予防が新たな段階へとシフトする。予防は、 このような変化の連鎖の末に完成する時間を要するプロセスである。長崎プロジェクトはそのプロセスの第一歩を踏み出したに過ぎない。
京都大学大学院医学研究科社会疫学分野 木原雅子 木原正博