はじめに
HIV-1/AIDSの化学療法は、1986年に開発されたヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤zidovudine(ZDV)による単剤療法に始まる。その後ddI、ddC、d4Tなどの新薬の開発とともに2剤併用療法が行われるようになり、さらに米国では1995年のプロテアーゼ阻害剤の登場により3剤以上を併用する多剤併用療法:highly active antiretroviral therapy(HAART)が可能となった。わが国では1997年にプロテアーゼ阻害剤が承認され、以後HAARTがHIV-1 感染症の標準的な治療法として定着している。また、1999年に非ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤が承認され、薬剤の選択肢が広がり今日に至っている。既によく知られているように、HAARTは優れた治療効果を示し、HIV-1感染者の予後の改善、AIDSによる死亡の顕著な低下をもたらした。しかしHAARTで達成できたのはHIV-1感染症の緩解であり、根治ではないことから、HIV-1感染者はAIDSへの進行を防ぐために生涯にわたる治療薬剤の服用継続を求められている。そして薬剤の副作用、薬剤耐性の出現が長期間治療を継続する上での憂慮すべき障害となっている。
わが国における薬剤耐性HIV-1症例調査
HIV-1感染症の治療薬剤耐性の問題はZDV単剤投与時代に遡る。ZDVが使用されるようになって間もなくZDV 耐性を獲得した無効症例が報告されている。その後、HAARTの時代になっても薬剤耐性HIV-1は、治療を進める際の障害として、診療現場において大きな問題となっている。HIV-1の薬剤耐性は治療薬剤の標的である2つの酵素、逆転写酵素とプロテアーゼ、に誘導される特定の点変異の組み合わせによって引き起こされる。このため、各酵素の塩基配列を同定し、アミノ酸置換の有無を見ることにより薬剤耐性HIV-1を判定することが可能である(薬剤耐性遺伝子検査)。
国立感染症研究所エイズ研究センターでは、1996年よりHIV-1感染者の治療支援として薬剤耐性遺伝子検査を行っている。検査方法はサンガー法による塩基配列の決定とアミノ酸の同定である。医療機関より送付された感染者血清よりHIV-1 RNAを抽出し、プロテアーゼおよび逆転写酵素領域をRT-PCRで増幅した後、塩基配列を同定し、IAS-USAの基準に従い薬剤耐性変異の有無について判定を行った。
1996年11月〜2003年12月の期間に、全国64の医療機関より1,152名の感染者のサンプルが送付され、薬剤耐性遺伝子の解析が行われた。参加64医療機関に対して2003(平成15)年8月に実施したHIV-1感染症受診者総数調査では、参加施設の53%にあたる34施設より回答があり、2,606名のHIV-1/AIDS患者が診療・治療を受けていることが明らかになった。回答のあった施設にはHIV-1感染症の診療に携わる主要な施設はすべて含まれており、無回答の施設でカバーされている感染者数は100〜150名前後と推測される。したがって無回答施設分も考慮した場合、我々が検査を行ってきた症例の母集団であるHIV-1感染者の総数は2,700〜2,750名と推測される。
表1は検出された薬剤耐性の頻度を年別に示したものである。ここでは遺伝子配列解析が可能であった検体数を母数に頻度を表してある。また、同一年に複数回サンプルが検査された症例においては、年内最後の検査結果を採択した。表1からは次の事実を読み取ることができる。(1)ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤耐性変異は1996年当時より48%という高い検出率を示している。これは我々が調査を始めた1996年時点でヌクレオシド系薬剤が薬剤耐性の誘導されやすい単剤、あるいは2剤療法で長年使用されてきたことを反映しているものと考えられる。(2)プロテアーゼ阻害剤耐性変異は、1997年のプロテアーゼ阻害剤の認可後に急激な耐性検出頻度の増加が認められている。これは認可により処方症例数が増えたためと考えられる。検出頻度は1999年の42%を頂点にその後減少に転じ、2003年は28%まで低下している。2000年以降に見る検出頻度の減少は、HAARTにおける処方の主流がプロテアーゼ阻害剤から非ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤へ切り替わったことを反映していると思われる。事実、減少するプロテアーゼ阻害剤耐性頻度と入れ替わるように、非ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤耐性変異が増加を示している。(3)非ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤耐性変異は1999年の承認以降増えつづけており、2003年の段階で20%まで上昇している。われわれの調査期間中ではプロテアーゼ阻害剤耐性変異で見られたような減少傾向は認められていない。
表2は多剤耐性症例の頻度の推移をまとめたものである。薬剤耐性遺伝子検査の結果より、各症例が幾つの薬剤に対して耐性を獲得していたのかを、軽度(1〜5剤耐性)、中度(6〜10剤耐性)、高度(11剤以上耐性)の3つに分類して集計を行った。表2からは1997年に入り中度耐性症例が増加したことが分かる(1.2%→13%)。また11剤以上に耐性を示す高度耐性症例の頻度は1998年(0.4%)以降徐々に増加しており、2003年は検査症例の5.7%がこの範疇にあった。
近年、未治療新規感染者における薬剤耐性HIV-1の検出が先進諸国において大きな問題となっている。わが国においても2003年に複数のグループから報告があり、最大17%の検出頻度が報告されている。表3は我々の調査集団における未治療症例・新規感染者の薬剤耐性変異検出頻度をまとめたものである。我々が調査してきた集団では、未治療慢性感染者と新規感染症例の判別が明確で無かったため、この表では両者をまとめて集計した。その結果、最も高い頻度を示したのは2000年のヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤耐性変異の2.8%であった。また全調査期間を通じて非ヌクレオシド系逆転写酵素阻害剤耐性とプロテアーゼ阻害剤耐性に関連する変異は認められなかった。このように我々の調査結果では薬剤耐性HIV-1の伝播は少ないと思われるが、より正確な動向を知るためにはさらに調査を広範に実施する必要があると考えられる。
結論
薬剤耐性変異ウイルスの出現はHIV-1感染症治療脱落の大きな一因であり、調査結果から治療脱落症例の過半数に何らかの薬剤耐性変異の存在が明らかになった。また症例数は少ないものの、高度多剤耐性症例は年とともに確実に増加をしていることが明らかになった。
国立感染症研究所エイズ研究センター・第2研究グループ 杉浦 亙