社会疫学的観点からみたエイズ予防対策

(Vol.27 p 117-118:2006年5月号)

1.はじめに

エイズ発生動向調査に報告されるHIV感染者数は増加が続き、AIDS患者数には1990年代の欧米諸国で起きたような激減はいまだに認められない。性感染症、10代女性の人工妊娠中絶率は、1990年代半ばから急増し、依然高いレベルに留まっている。国内のコンドーム出荷数は、1993年以来約40%も減少してしまった。これらの現象は、わが国のこれまでの諸施策が適切な効果を発揮してこなかったことを意味しており、アジアHIV大流行を近未来に控えた今、有効な対策の実施は国家的課題となっており1)、戦略的思考と科学的アプローチを備えた対策への転換が求められているところである。

2.エイズ対策の戦略

プログラム連関:エイズ対策は、5つの施策群から構成される。監視、啓発、検査、治療・ケア、差別偏見の防止である。これらは、相互に関連するため(プログラム連関)、バランスを取った施策の実施が求められる。例えば、監視がなければ適切な対策は行えず、啓発が不十分なら感染者が増えて治療プログラムはやがて破綻する、治療が満足に受けられなければ検査を受ける人は減り、差別偏見が強い社会では感染者は潜在化し流行は促進される、という具合である。バランスを欠けば、破綻に向かう悪循環に陥って行く。

対策のポジショニング:国連合同エイズ計画/WHOの分類によれば、わが国は現在、低流行期にある。この時期に最も重点を置くべき対策が、啓発である。そして、啓発は、HIV感染リスクの高い人々の社会的動態や流行の自然史を念頭に、その要となる各ポイントを正確にターゲットしなければならない。例えば、学校という場は全員を対象に教育ができる唯一の機会(ゲートウエィ)であり、効率の高い啓発が可能である。この時期に適切な対策を実施できれば、将来、社会の様々なリスク集団の規模を縮小することができる。また、性感染症の検査や治療で医療機関を受診する人々やHIV検査を受ける人々は、高リスク者が、いわば水面下から浮上してきた瞬間である。その機会を捉えれば、最もHIV感染リスクの高い人々に対策を講じることができる。また、治療を受けているHIV感染者に対する予防支援対策は、二重感染の防止とともに、HIV感染拡大の直接の防止につながる。以上はいずれも社会的にアクセスが可能な人々である。これに対し、いわゆるハイリスク層(男性と性行為をする男性[MSM]、セックスワーカー、その顧客、薬物静注者など)は、一般にはアクセスは難しい。誰がその層に属し、どこにいるかが分からないからである。これらの層には、アクセスできるコミュニティ組織も、既存の人材も存在しない。しかし、HIV流行の自然史では、最も早く流行の危険に曝されるのがこれらの人々である。つまり、最もアクセスが必要な集団にアクセスができない、これが、AIDS対策の難しさである。しかし、幸いなことにわが国では、研究者たちの長年の努力によって、アジアでは唯一MSMのコミュニティ構造が形成され始め、アクセスの可能性が拡大している2)。こうした貴重な機会を最大限育て、的確にターゲットした対策を展開しなければならない。

3.社会疫学的アプローチ

では、「適切な対策」とは何か。少なくとも、それが、従来の対策の繰り返しでないことは、冒頭に述べた事態が示している。年に一度のイベントや欧米の模倣的対策を繰り返して現在に至ってしまった。ここに共通して見られるのは、効果評価と対象の理解を怠ってきたことである。有効な予防対策の開発と評価のために、科学的アプローチの導入が求められている。

科学的アプローチにはいくつかの条件が必要である。第1に、対象の深い理解に基づくことである(対象者中心主義)。行動、考え方、価値観、文化、嗜好など、対象を深くかつ多面的に理解しなければ、どのような対策が必要であり可能であるかが分からない。第2に、実際に行動変容を導けなければならない。そのためには、行動の理論的理解と、有効なコミュニケーション技法の応用が必要である。第3に、行動のエコロジカルな理解が必要である。行動は社会現象であり、その変容には、個人の心理的次元にとどまらず、社会に対するアプローチも欠かせない。つまり、直接の対象者(オーディエンス)のみならず、その周囲の関係者や組織(セカンドオーディエンス)も視野に入れた対策が求められる。第4に、社会的評価が必要である。プロセス、インパクト、アウトカム、各レベルの評価指標を導入し、対策の効果評価を行わねばならない。

これらは、どれも当然の条件に見える。しかし、現実の対策は、そのどれをも欠いてきたのが現状であり、そして、これらを支える方法論は、驚くべきことに、公衆衛生の分野から欠落してきた部分でもある。こうした方法論は、実は、社会科学の分野で発達していた。ソーシャルマーケティング、質的方法、行動理論、コミュニケーション理論、ネットワーク科学などがそうである。これらの方法論を疫学・統計と統合して用いれば、現実社会のより深い理解とより有効な対策の創造が可能になる。それが、本稿のタイトルにある社会疫学(socio-epidemiology)である3)。

社会疫学は、私たちが、2000年以来提唱してきた学問的立場であり、「机上の」学問としてではなく、ここ数年、特に若者対策の中で実践し、エビデンスを蓄積し続けている。

4.社会疫学的対策の実例:WYSHプロジェクト

ここ数年、我々は、WYSH(Well-being of Youth in Social Happiness)プロジェクトという研究と事業が融合した若者対象の予防対策を展開している。このプロジェクトでは、20万件の性行動調査と数百例の若者への質的調査結果に基づいて、まず、ソーシャルマーケティング、質的方法、行動理論、コミュニケーション理論、教育理論を総合して、中高生向けの予防授業と視聴覚教材を開発した。この予防教育は、高い知識・態度・行動変容効果のあることが証明され、文部科学省の後援も受けて、厚生労働省の青少年エイズ対策事業として普及が始まり、今年度からは一部で自治体規模での取り組みが開始されるに至った。また、性行動の活発化のプロセスを説明する社会学的モデルとして、「コネクティドネスモデル」を提唱し、現在それに基づく予防戦略としての「社会分業」モデルの開発へと進んでいるが4)、これらは既に新しいエイズ予防指針の戦略概念ともなっている。紙幅の関係で、諸理論やWYSHプロジェクトについてのより詳しい内容については、昨年度発行した、「地方自治体のエイズ啓発プログラムのためのガイドライン」や「地方自治体における青少年エイズ対策/教育ガイドライン−若者の性行動の現状とWYSHプロジェクトの経験」を参照していただきたい5)。

5.最後に

エイズ予防が人間社会にとって非常に難しい課題であることの理解が進まない、それゆえに、予防が進まないというパラドックスに社会は陥っているように見える。そして、それが、世界に共通する社会的脆弱性の背景としてある。予防が人智の総力戦であるとの理解が進み、科学的アプローチが普及することを願ってやまない。

文 献
1)木原雅子,木原正博,BIO Clinica 20 (8):23-28, 2005
2)厚生労働科学研究「男性同性間のHIV感染予防対策とその推進に関する研究」平成14〜16年度総合研究報告書(主任研究者:市川誠一)
3)木原正博,木原雅子,現代医療 35:60-64, 2003
4)木原雅子,10代の性行動と日本社会−そしてWYSH教育の視点,ミネルヴァ書房,京都,2006
5)厚生労働科学研究「HIV感染症の動向と予防モデルの開発・普及に関する社会疫学的研究」平成17年度報告書(主任研究者:木原正博)

京都大学大学院医学研究科社会疫学分野 木原正博 Saman Zamani 木原雅子

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