はじめに:わが国では2005年10月までに21例の乳児ボツリヌス症が確認されている。近年、米国でヒト由来抗ボツリヌス毒素血清が開発されその有効性が伝えられているが、現時点ではわが国においてこの抗血清の入手は事実上不可能であり、乳児ボツリヌス症については対症療法で自然治癒を待つとするのが一般的である。大腸内で増殖したボツリヌス菌から放出される毒素により麻痺を生ずる機序を考慮すれば、排便を促すことが臨床的に重要なポイントと推測される。しかしながら、症例数自体が極めて少ないことから、治療法の実際について記載された文献は非常に乏しい。22例目と考えられる本症例では臨床経過と便中毒素および菌数の変化について追跡ができたので報告する。
症例の概要:患者は5カ月の女児で約1週間の便秘、哺乳力低下、活気不良を主訴に、2006年5月に当院小児科を受診、入院となった。入院時に乏しい表情、眼瞼下垂、眼瞼腫脹、四肢筋力の低下、深部腱反射の低下を認めた。髄膜炎、敗血症などの重症感染症、脳症、先天性心疾患等を疑い、血液検査、髄液検査、頭部CT、頭部MRI、心臓超音波検査、脳波検査を行ったが、いずれも異常を認めなかった。病前の精神運動発達は年齢相応で寝返りが可能であったが、徐々に筋力低下は進行し、自動運動はほとんど消失、無表情となった。入院5日目、両側5mm大の散瞳、対光反射の消失を認めたが、追視は可能であることに気づいた。当院眼科で眼科疾患を検索したが異常を認めなかった。この時点で末梢神経障害が疑われ、重症筋無力症、Fisher症候群、乳児ボツリヌス症などが鑑別診断として考えられた。入院後も排便はなく、経鼻チューブで母乳の胃内注入を開始していたが腸蠕動音は聴取されず腹部は膨満し、腹部レントゲンで腸管ガスの貯留を認めた。生理食塩水約10mlで直腸内洗浄を行ったところ、少量の反応便を得られたため、生理食塩水で希釈された便検体と血清を大阪府立公衆衛生研究所に提出した。便と血清の双方からB型ボツリヌス毒素が検出され、入院7日目に乳児ボツリヌス症と診断、患児は個室に隔離された。後日、便培養にてClostridium botulinum が同定された。以後、補液と母乳および粉ミルクの経腸栄養を続け、誤嚥防止のため30度の上体挙上位を保ち経過観察した。呼吸障害の出現はなく、排尿は良好であったが、排便もないまま麻痺症状の改善を認めなかった。便の軟化と腸管運動の改善を期待してラクツロースの内服を開始した。入院11日目に10Frサクションカテーテルを用い温生理食塩水500mlにて腸洗浄を行ったところ、軟便を少量回収できたのみであったが、翌12日目より1日あたり1〜8回の自力排便を連日認めるようになった。便性は淡黄色普通便であった。これと併行して麻痺症状が日ごとに改善し、徐々に表情がもどり、上下肢の運動も回復傾向をみせた。19日目には瞳孔径(両側3.0mm)と対光反射が正常に復し、23日目には引き起こし反射がほぼ正常となった。32日目に経口摂取が十分となり軽快退院した。
細菌学的検査の概要:診断時、便(浣腸液)および血清でマウスを用いた中和試験を行った。また、GAM培地への塗抹培養、Latex凝集反応検査を行い、便中毒素および菌数の経時的変化を追った(図1)。感染経路検索のため、環境調査として患児が摂取したと考えられる乳児用飲料(粉ミルク、ほうじ茶。いずれも発症より約1〜4週間前に摂取)、ポン菓子(入院1日前少量摂取)、自宅近くの砂場の砂、ハウスダストとして自宅の掃除機のゴミパック内容物、ベランダの塵芥について、ボツリヌス菌および毒素の検出を試みたがいずれも陰性であった。患児は元々ほぼ完全母乳栄養で、前述の乳児用飲料は生後数回与えられた程度であった。
考察:本症例は臨床症状が比較的軽いとされるB型ボツリヌス毒素を産生するC. botulinum による乳児ボツリヌス症である。ラクツロース内服と腸洗浄がどの程度排便を促したかは不明であるが、排便とともに毒素量、続いて菌数が著明に減少していること、さらにその後速やかに麻痺症状が改善していることから、排便が症状改善のきっかけとなりうると考えられた。
愛仁会高槻病院小児科
安部信吾 西野昌光 三宅 理 橋本直樹 中川 卓 佐竹恵理子
大阪府立公衆衛生研究所感染症部細菌課
浅尾 努 久米田裕子 河合高生
国立感染症研究所細菌第二部 高橋元秀