1.エイズの現状
HIVの研究は1983年にウイルスが発見されて急速に進み、エイズの理解、治療薬の開発に大きく貢献してきた。しかし、現在に至っても根治療法の欠如とワクチン開発が滞っている。そのため、いまだ人類は世界的流行を阻止することができない。2006年のWHOの統計によると、HIVの感染者は約4,000万人、エイズによる過去1年間の死亡者は約300万人である。エイズによる死亡はその流行の特徴から「経済生産年齢」が最も影響を受ける。HIV陽性率が30%を超えるサハラ砂漠以南のアフリカ諸国では社会経済に大きな打撃を受けており、エイズ孤児など多くの問題が生じている。我々には戦時や紛争でしか耳になじみのない「戒厳令」がエイズのためにアフリカ諸国の一部で出されており、世界的危機であるという現状がよく理解できよう。日本でもまだその総数こそ少ないが、HIV感染者およびエイズ患者数は年々増加の一途をたどっている。
20年にわたる研究により、エイズワクチン開発は容易ではないことが徐々に認識されてきた。もはや一刻の猶予もならない世界的問題であるエイズに対し、小さな研究グループではもはや迅速かつ効率的な治療予防法開発はなしえないことから、近年のエイズ研究は莫大な予算を計上し、世界的な共同研究機構[International AIDS Vaccine Initiative (IAVI)やCenter for HIV-AIDS Vaccine Immunology (CHAVI)など]を組織して、コホート研究やワクチン研究を行うような取り組みがなされている。国際協力を一層強めてエイズ制圧に向けて努力していこうとの取り組みである。わが国も研究教育にわたり多面的な国際協力活動を展開しているが、当所における国際研修はその一環として非常に重要な位置を占める。
2.エイズ診断技術の進歩
HIVの検査はELISA法だけでなく、免疫クロマト法による迅速抗体検査が世界に浸透し、検査の簡便性は飛躍的に向上し、保健衛生に大きく貢献している。HIV/エイズの診断においても血中CD4陽性T細胞数やウイルスRNA量計測が頻用されるようになった。治療においては、1990年代後半から導入された抗レトロウイルス剤(逆転写酵素阻害剤、プロテアーゼ阻害剤)の併用療法(HAART)が著しく高い治療効果をあげ、HIV/エイズのコントロールを容易にした。近年、これに加えて膜融合阻害剤などあらたな治療オプションが市場に供給されつつある。一方、新たな問題点も生まれてきた。エイズ治療薬が浸透するにつれて徐々に広がりをみせている薬剤耐性ウイルス問題である。未治療で感染が明らかになった患者が薬剤耐性ウイルスに感染している事例が増加してきている。供給される薬剤の種類が限られている開発途上国などでは、少ない選択肢の中から薬剤耐性ウイルスに対して最も有効な治療薬を選択する必要に迫られる。これは治療を成功させる上でも、医療費を削減するためにも重要なポイントである。薬剤耐性の検査にはphenotyping とgenotypingと呼ばれる検査がある。Phenotypingは実際に患者のウイルスをin vitroで複製させて抗レトロウイルス薬(ARV)に対する感受性を測定するものである。Genotypingは核酸ベースの診断であり、ウイルスゲノムの塩基配列を決定して代表的な薬剤耐性変異を同定することにより薬剤耐性の表現系を予測する方法である。前者は比較的長い時間を要し、検査体制としてより高いレベルのスキルが要求される。後者の技術は比較的容易でかつ迅速に結果が得られるため、主に先進諸国で広く普及しており、今や治療薬選択に欠くことのできない検査になりつつある。この技術を最も必要とするのはエイズが蔓延するアフリカ・アジア諸国であり、これを普及させることが今世界的に求められるエイズ対策の一つである。
3.技術者養成に関する世界的要請への貢献
先に述べたサハラ砂漠以南のアフリカ諸国を中心として、世界的規模で蔓延しているHIV/エイズに対する日本の国際的貢献は国際協力機構(JICA)が中心になって行われている。JICAでは、HIV新規感染を予防すること、HIV/エイズと共に生きる人々およびその家族の生活の質を向上させることを目標として掲げている。それを実現するためのアプローチとして、HIV感染予防策の強化に重点をおきながら、各国の既存のシステムに予防、治療、ケア・サポートが継続した一つのサービスとして組みこまれるような体制づくりへの働きかけを行っている。さらに、日本の近代化の経験を踏まえ、人材育成、組織強化、制度作りへの技術的な支援を通じて、開発途上国の人々が能力を高め、自分たちの抱える課題を自ら解決できるようになることを目指す能力開発のプロセスを支援している。当所における国際研修は、エイズが蔓延するアフリカ・アジア諸国において実際に検査を担当する技術者の能力開発のプロセス、すなわちHIV/エイズ検査・診断に関する知識・技術の向上に大きく貢献している。
4.感染研の過去から現在に至る国際研修の変遷
感染研・エイズ研究センターにおけるHIV/エイズを対象とした国際研修は1993年に始まり、「エイズのウイルス感染診断検査技術」というコース名で10年間行われた。コースの目的は、HIV感染およびエイズに関する基礎的、臨床的事項の概略を紹介することにより、病原体と病気に対する理解を深め、HIV感染者およびエイズ患者における検査診断技術の理論的基礎と精度の高い検査技術を修得させ、対象諸国におけるHIV感染診断検査技術分野の整備に資することであった。最初の5年間は、東南アジア諸国、次の5年間は西太平洋、南東アジア、アフリカを対象国として実施され、内外から大きな評価を得た。これに引き続き2003年からは、それまでの内容に加えて薬剤耐性ウイルスの解析など、質的診断技術の確立に向けた要求に応える、より高度な診断技術の修得を目的とした研修を実施している(コース名:HIV患者のケアとマネジメントのための高度診断技術)。これまでの14年間の研修で、計49カ国、134名に及ぶ研修員の指導を行った(表)。
5.これからの国際研修のありかた
前節で述べたように、当所の国際研修活動は世界各国のHIV感染診断検査技術分野の整備と質的診断技術の向上に貢献してきた。WHOが2003年に掲げたいわゆる「3 by 5」(2005年末までに開発途上国の300万人の治療が必要なHIV感染者にARVを提供する)政策のおかげでtreatment accessは劇的に拡大した。2005年には途上国のHIV感染者のうち130万人がARVを受けられるまでになり、ARVの提供場所も確実に増加している。今後予想される問題点は、treatment accessの拡大によるHIV感染生存者と薬剤耐性症例数の大幅な増加である。そのため、感染・治療のモニタリングと薬剤耐性検査(genotyping)の普及はますます求められることになる。現在先進国で行われているように、将来的には開発途上国でも薬剤耐性検査が感染のモニタリングのみならず治療薬選択のための診断としても必要になってこよう。このような情勢の変化に伴い、我々の行うべき研修の内容もHIV感染のモニタリング項目においてCD4 count、virus loadの定量に加えて、薬剤耐性genotypingに関する講義と実習を大幅に拡充して、開発途上国各国からの研修生に最新の関連知識・技術を修得していただき、ARVの世界的普及時代に対応していかなければならない。
国立感染症研究所・エイズ研究センター第3室 村上 努 駒野 淳