腸チフスはチフス菌によって引き起こされ、稽留または弛張する高熱、比較的除脈、バラ疹、脾腫などを特徴とする全身性感染症であり、チフス菌に汚染された食品および飲料水の摂取が感染の原因となる。かつては日本国内でも多くの患者が発生していたが、1983年を境にして、海外でチフス菌に感染し、帰国後に発病する輸入腸チフス患者の全患者数に占める割合が急増し、1989〜1994年は輸入例が全腸チフス患者の45%前後、1995〜1997年は65%前後を占めた 1)。さらに近年の腸チフス患者数は年間60〜80例で推移しているが、その70%は輸入例である 2)。感染地はアジア諸国が90%を占めており、中でもインド亜大陸での感染者が多い 1)。当院に1989年1月〜2008年12月までに入院した腸チフス患者61名の推定感染国はインドが22名、インドネシアが17名、フィリピンとネパールが各4名、その他14名であった。
日本では患者発生数が少ないため、医療関係者および患者の認知度が低く、早期に腸チフスを診断されず、治療開始が遅れて重症化することがある。また、近年、インド、東南アジアを中心にチフス菌の薬剤耐性化が進んでおり、適切に診断されても、起因菌が耐性菌であれば、治療に難渋することもある3)。2002〜2006年に当院に入院した腸チフス患者12名でみると、発症から入院までの日数は2日〜42日で、平均13.2日、入院期間は8日〜24日、平均17.5日であった。また、入院治療に要した直接費用は22.4万円〜66.3万円、平均約49万円であった4)。すなわち、現在の日本で腸チフスは診断面でも治療面でも問題があり、比較的高額な医療費を要する疾患になっていると言えよう。
腸チフスに対しては、現在生ワクチンと不活化ワクチンが実用化されており、諸外国では流行地への渡航者に広く接種が勧められている 2)。また、腸チフス発生地のタイでは、一般小児に生腸チフスワクチンが接種されている。したがって、日本から腸チフスの流行地に渡航し、ある程度の期間滞在する場合には、出国前に腸チフスワクチンの接種を済ませておくことが望ましい。しかし、日本では生ワクチンも不活化ワクチンも認可されていないため、腸チフスワクチン接種を受けられる医療機関が限られているばかりか、腸チフスワクチンの存在そのものも広くは知られていない。
生腸チフスワクチンは、チフス菌の弱毒変異株Ty21a株をカプセルに封入してワクチンとしており、1カプセルを1日置きに3回ないし4回服用する。6歳以上の者が接種対象であるが、妊婦や免疫抑制状態にある者は対象外となる。不活化ワクチンは、チフス菌から病原性に関係する成分であるVi多糖体を抽出し、これを精製して製造しており、0.5mlを筋肉内に1回注射する。接種対象者は2歳以上である。本ワクチンを接種した成人での抗体陽転率は88〜96%と報告されている。ワクチン接種により産生された抗体は2年後には3分の1程度に減弱するため、腸チフス流行地に長期間滞在する者には3年目ごとの追加接種が勧められている。本ワクチンの副反応は主に接種局所の疼痛ないし圧痛であり、全身性の副反応の発現は低率である 5)。
当院ワクチン外来では2003年から国内における腸チフスワクチンの需要を知るために、不活化腸チフスワクチンを個人輸入して接種を行っている。当院のワクチン外来では、主にアジア諸国への赴任予定の20代、30代、さらには40〜50代の勤務者およびその配偶者の受診増加により、近年年間ワクチン接種件数が著しく増加し、2007〜2008年には4,000件を超えた。ワクチン別では狂犬病ワクチン、A型肝炎ワクチン、B型肝炎ワクチン、破傷風トキソイドが接種件数の上位を占めている。腸チフスワクチンの年間接種件数は、輸入初年の2003年は13件、2004〜2008年はそれぞれ132、65、121、150、177件と、増加傾向がみられている。なお、2005年の接種件数減少は輸入の遅れにより生じた品不足によるものであった。当院での腸チフスワクチン被接種者の年齢分布は、30〜39歳群が最も多く、20〜29歳、40〜59歳の順であった(図1)。2006年と2007年の腸チフスワクチン被接種者のうち渡航先が判明した257名では、インドが60名、インドネシアが23名、タイが20名、アフガニスタンと中国が各18名、その他のアジア諸国が54名、合計 193名、ウガンダの7名をはじめとするアフリカ諸国が合計37名で、アジア諸国への渡航者が過半数を占めていた。また、世界一周旅行を予定している被接種者も8名いた。
当院ワクチン外来において腸チフスワクチン接種希望者数は、徐々に増加し、2008年には月平均約15名まで増加している。したがって、未認可ではあるものの、腸チフスワクチンに対する流行地への赴任者、旅行者からの需要は少なくないと考えられる。今後、腸チフスワクチンが認可・市販され、腸チフスワクチンに関する情報が広まり、各地の医療機関での接種が容易になれば、さらに腸チフスワクチンに対する需要は伸びるものと予測される。
文 献
1)海老沢 功、大谷 明、日本医事新報 No.4004: 39-45, 2001
2)濱田篤郎、福島慎二、臨床と微生物 31: 355-360, 2004
3)足立拓也、他、感染症学雑誌 75: 48-52, 2001
4)高山直秀、菅沼明彦、日本医事新報 No.4289:70-74, 2006
5)高山直秀、感染症学雑誌 79: 254-259, 2005
東京都立駒込病院小児科 高山直秀