1.背景と香港派遣の経緯
2002年11月、 中国南部で原因不明の呼吸器感染症として始まったとされる重症急性呼吸器症候群(SARS)は、 翌2003年2月下旬、 中国で感染した医師が滞在した香港のホテルMを最初の舞台に、 瞬く間に世界中へ拡がった。2月末〜3月上旬にかけて、 ベトナム、 シンガポール、 香港等における謎の呼吸器感染症の院内感染を中心とした急速な拡大に対応すべく、 世界保健機関西太平洋事務局(WPRO)は、 世界各地の疫学者等を現地に派遣した。筆者らは、 わが国における実地疫学専門家養成コース(FETP-J)修了生として、 WPROからの依頼に基づき香港のWHO疫学調査チームへ加わった(派遣期間;砂川:3月17日〜4月4日、 中島:4月7日〜4月18日)。
2.疫学調査の流れ
香港のSARS流行は、 院内感染を中心とした初期と、 高層密集住宅地アモイガーデンでの集団発生に始まる後期とに分けることができる。院内感染期→市中感染期(院内感染も同時に発生)のパターンは、 シンガポール、 カナダ等他の地域でも見られている。感染拡大がいったん市中へ拡がると、 そのコントロールの困難さは院内感染期とは比較にならない。同時に、 市民の不安も桁違いとなる。わが国から香港のSARS調査に加わった頃は、 院内感染期であったと言えよう。P病院では、 患者間で感染が拡大し、 また、 次々と医療スタッフが発症した。感染症の同定(病原体の同定)、 感染源、 感染経路の同定、 感染拡大範囲の同定、 感染拡大防止策の提言等疫学調査に課せられた課題は多いが、 流行初期の調査は主に二つの流れに従って行われた。すなわち、 現時点で確認された感染拡大地域における詳細な情報収集と整理(記述疫学)、 現時点における感染の拡がりを確認し、 今後の新たな症例発生を把握するための積極的症例探索とサーベイランスの確立である。
3.初期の記述疫学で分かること:疾患の経過、 潜伏期間、 感染拡大様式
筆者らは、 まず、 P病院の院内感染事例の調査に加わった。症例定義をP病院関連の「38.0℃以上の発熱」、 「胸部レントゲン上で非定型肺炎の所見」、 「他の病因の否定もしくは不明」とした。流行曲線(Epidemic curve)は、 発端症例の入院数日後の急峻な山に続いて低い山が続いており、 発端症例から多くの人がほぼ同一日に感染し、その後感染が徐々に広がりつつあることを示していた。発端症例の病床から距離的に近いほど発症率は高くなっており、 人→人の接触が感染経路として強く示唆された。発端症例のように、 ある患者が非常に強い感染性を示すことも観察された(スーパースプレッダー)。流行曲線よりP病院事例における潜伏期間は2〜7日と推定された。入院患者間や患者と医療スタッフのように接触期間が長い場合には潜伏期間を推定することは困難であるが、 接触日が限定されるサブグループの解析を行うと、より信頼性の高い推定ができる。P病院では10名以上の医学生が発症したが、 その多くはある特定の日のみ病院を訪れていた。彼らの発症日からも潜伏期が2〜7日であると推定された(注:その後、 多くの地域における事例の疫学調査により潜伏期間は現時点で1〜10日と考えられている)。このようにして得られた潜伏期間が、 接触者の要観察期間や渡航延期勧告の期間決定の根拠となった。
4.P病院の視察と院内感染対策強化への提言
院内感染対策を徹底することは、 その後の市中感染拡大を防止するためにも重要である。筆者らはP病院の視察後、 院内感染予防策を提言したが、 その下敷きとなったのは、 一般的な院内感染予防策として知られる標準予防策や感染経路別予防策、 エボラなどのウイルス性出血熱対策で採用されているバリアナーシングの手法等であった。ゴーグルはオープン型が良いか密閉型が良いかは、 香港の調査チームでも話題になった。筆者らは、 密閉型を採用していたシンガポールで急速に院内感染のコントロールが進んだこともあり、 密閉式が良いとの印象を持った。
5.世界共通のサーベイランスと積極的な情報交換
香港での疫学調査の情報は、 必要に応じ電子メールなどでWPRO本部へ送り、 WHOが世界各地のSARS調査チームと連日定期的に行っている電話会議を通して積極的に共有が行われた。共通のSARSサーベイランスを確立し、 各地で得られた発生動向情報は疫学調査知見同様、 積極的に共有された。
6.市中での感染拡大の調査と対応
アモイガーデンにおけるSARS集団発生で香港の流行状況は一変した。各35階ほどの住居棟10棟のうちE棟に患者は集積していた。しかも、 発端症例の滞在した部屋の垂直上方の部屋に多発していた。イベントなど住居以外の場所の共有、 エレベーターでの曝露、 昆虫鼠属の媒介、 空気感染、 食品や飲料水による媒介など、 多くの仮説が立てられ調査に臨んだ。香港保健当局は、 環境部が主体となり研究機関との共同調査や実験の結果に基づき、 排水(下水)から逆流したエアロゾルによる感染拡大との見解を発表し、 大規模な下水対策キャンペーンを実践した。
7.実地疫学の有用性と日本からのチームによる参加の重要性
不明病原体による感染症集団発生時に実地疫学は大きな力を発揮すると言われているが、 今回、 香港の疫学調査ではその認識を新たにすることができた。また、 実地疫学の手法が世界標準であることも再確認できた。WHO調査チームの構成員は、 全員数週間で交代する「多国籍軍」である。途中で仕事を引き継ぐことも多い。そのような中で、 実地疫学手法は共通語であった。
また、 今回強く感じたことが、 チームでの参加の重要性である。各国は一時期に複数名の専門家をチームで派遣していた。チーム員は常に次は自分が感染するかも知れないという不安を抱えながら調査を行っている。疾患への知見は乏しく、 感染は拡大していく。当然仕事量は日増しに増えていく。その中でのストレスは予想を超えるものであった。外国機関からの多くの疫学者は香港での調査後、 すぐには職場復帰せず数週間の休暇をとり、 また、 エボラ出血熱の疫学調査の経験を持つある疫学者は、 香港での調査の緊張感、 不安は、 エボラの調査をはるかに超えていたと、 後に語っていた。たとえSARSに罹患していなくても、 発熱すれば帰国できず、 SARS受け入れ病院へ直行という環境は過酷である。筆者らはそれぞれ単独で日本から派遣されたが、 同時に派遣されていたならば、 ストレスは半分以下であっただろう。今後、 同様の疫学調査に日本からの派遣が行われるであろうが、 危機管理上も、 また、 仕事の効率化の点からも、 チームによる派遣が望ましいと考えられたことを付記しておく。
国立感染症研究所・感染症情報センター 中島一敏 砂川富正