狂犬病は海外旅行者(滞在者も含む)の感染症として稀な疾患であるとはいえ、致死率100%であることから、特に旅行医学関係者はそのワクチン接種について頻繁に、時として神経質なくらいに議論を行っている。これらの議論の前提となるのは欧米で使われているワクチンであり、わが国で使われている国産ワクチンとは別の製品であるが、今回、ワクチン接種に関する現時点でのコンセンサスと問題点を要約して述べる。
1.旅行者での狂犬病ワクチン接種については、狂犬病の分布地域を正確に把握することが重要である
世界における狂犬病の分布地域はアフリカ、南北アメリカ大陸、アジア、ヨーロッパと広範にわたり、それらはWHOの世界地図1)、米国CDCの旅行医学関係マニュアル2)などに詳しく記載されている。そこではヒトおよび動物の区別がなされていないこともあるが、動物の狂犬病のみの報告でもヒト狂犬病のリスクがあることを忘れてはならない。逆に、狂犬病が報告されていない国も把握し、不必要なワクチン接種を行わないことも重要である。近年における英国、フランス、ドイツでの輸入例17例について感染源となった動物をみると、16例がイヌ、1例がサルであり、圧倒的にイヌが多かった3)。
狂犬病以外のリッサウイルス感染症は狂犬病類似ウイルスを原因とし、コウモリの咬傷で生じるが、一部を除いて狂犬病ワクチンが有効と考えられている。しかし、今までのヒト症例の報告は9例にとどまっており4)、旅行者のリスクとしては高くないと思われる。
2.曝露後予防措置は完ぺきに行われた場合、効果は非常に高く、発症のリスクがある動物咬傷では強く勧められる
曝露後予防措置とは、1)石鹸と流水による傷口の十分な洗浄、2)曝露後ワクチン接種、3)咬傷部位への抗狂犬病ウイルス免疫グロブリンの投与の3種からなる。いずれも迅速(24時間以内)に開始する必要がある。まれに、曝露後ワクチン接種を行った者での発症例がみられているが、それらの例のほとんどは開始が遅れたか、免疫グロブリンを投与しなかったか、あるいは投与しても咬傷部位に投与しなかった(筋肉内投与のみ)などの問題がみられている5,6)。逆に言うと、曝露後予防措置を完ぺきに行った場合の効果は非常に高いといえる。曝露後予防措置は迅速に開始すべきであるが、何らかの理由で放置してしまった場合、気が付いた時点で直ちに開始すべきである。それは、狂犬病の潜伏期は長期にわたることがあり、その後発症しないとは保証できず、たとえ曝露後予防措置の開始が遅れても、それが効く可能性が残されているからである。
曝露後ワクチン接種のスケジュールについては、曝露前ワクチン接種を行っていない場合と、行っている場合とに分けられる。行っていない場合、欧米のワクチンでは5回接種(0、3、7、14、28日)を行うが、わが国のワクチンでは6回接種(0、3、7、14、30、90日)を行う。行っている場合、曝露後ワクチン接種の回数は少なくて済むと考えられている。ただし、曝露前ワクチン接種が行われた時期により、曝露後ワクチン接種の回数を変えるべきであるかどうかにつき、一定した見解はない。例えば、米国CDCでは曝露前ワクチン接種の時期にかかわらず、曝露後ワクチン接種としては2回(0、3日)としているし2)、他では、曝露前ワクチン接種が1年以内であれば、曝露後ワクチン接種は2回(0、3日)、1〜5年前であれば3回(0、3、7日)、5年以上前であれば曝露前ワクチン接種を行わなかったときと同様に5回(欧米のワクチンの場合)と示されている。
免疫グロブリンは、傷およびその周囲に十分に浸潤させることが肝腎であり、それに全量(ヒト製剤では20IU/kg)を使うのを目指すが、残れば筋肉内注射を行う。
3.狂犬病のリスクが高いと予想される場合、曝露前ワクチン接種も積極的に考慮する
このように、曝露後予防措置が完ぺきに行われた場合の効果は非常に高いが、旅行先でそれが可能な医療機関に迅速にアクセスできないこともありうる。医療機関にアクセス可能でも、危険なセンプル型ワクチンを使っている可能性があり、免疫グロブリンについては入手困難なことが多い。曝露前ワクチン接種を行っていれば、曝露後ワクチン接種の回数を減らすことができ、それにより、危険なセンプル型ワクチンの場合には副反応の危険を減少させる可能性があり、また免疫グロブリンは不要である。曝露前ワクチン接種を行っても、必ず曝露後ワクチン接種を受けるべきであるが、動物による咬傷などの認識があっても医療機関に迅速にアクセスできない場合、あるいは本人が咬傷などに気づかない場合でも、曝露前ワクチン接種によって発症が予防される期待も多少は持てる7)。
曝露前ワクチン接種が強く勧められるのは、上記のような現地での医療の問題があり、長期滞在者、動物関係者、自転車旅行をする者、人道支援などで地元に密着する者、バックパッカー、洞窟探検者(狂犬病を媒介するコウモリが生息する)、小児(動物と遊ぶ、動物に咬まれても親に伝えない)などの場合である。ビジネス出張者、バスで移動する団体観光旅行者などでは優先度は高くない。
ただし、曝露前ワクチン接種の効果を維持するための追加接種については、基準が統一されていない。米国CDCはリスクに応じて3群に分類し、高い順に1)6カ月ごとに抗体測定し、一定レベルを下回れば追加接種、2)2年ごとに抗体測定し、一定レベルを下回れば追加接種、3)抗体測定や追加接種は行わない、としている2)。一方、0、7、28日の3回接種を行い、1年で追加接種を行った後、10年間は防御レベルの抗体価が維持されていたとする報告もある8)。
国産ワクチンを用いた曝露前接種は、最短でも半年かけての3回接種(0、4週間後、6〜12カ月後)で、現実には3回接種を完了する前に海外渡航することが多い。しかし、筆者も関係した抗体調査からは、2回接種では防御レベルに達しない例もみられている9)。国産ワクチンでも欧米と同様な0、7、21あるいは28日の3回接種に関するデータが出され、臨床現場に導入されることが望まれる。
おわりに
海外旅行者における狂犬病ワクチンの接種においては、本疾患の疫学を正しく理解し、曝露後予防措置の重要性を認識する必要がある。さらに、個々の旅行者における狂犬病のリスクを適切に判断し、場合により曝露前ワクチン接種も考慮する。最後に、欧米および国産の狂犬病ワクチンに関し、旅行医学上重要なさらなるデータが出されることが望まれる。
文 献
1) World Health Organization, Infectious diseases of potential risk for travellers, In “International Travel and Health 2006”, World Health Organization, Geneva, p46-86, 2006
2) Centers for Disease Control and Prevention, Rabies, In “Health Information for International Travel 2005-2006” (Arguin PM, Kozarsky PE, Navin AW, eds), Elsevier, p247-253
3) GIDEON (Global Infectious Diseases and Epidemiology Online Network), http://www.gideononline.com/(有料のウエブプログラム)
4)井上 智,リッサウイルス感染症,感染症週報2006年第20週: 26-29
5) Haupt W, Vaccine17: 1742-1749, 1999
6) Wilde H, Rabies vaccine, In “Travelers' Vaccines” (Jong EC, Zuckerman JN, eds), BC Decker, Hamilton, p200-218, 2004
7) Hill DR, et al ., Clin Infect Dis 43: 1499-1539, 2006
8) Strady A, et al ., J Infect Dis 177: 1290-1295, 1998
9) Arai YT, et al ., Vaccine 20: 2448-2453, 2002
国立感染症研究所感染症情報センター 木村幹男