平成20年エイズ発生動向年報の発表にあたって
(Vol. 30 p. 231-232: 2009年9月号)

日本のエイズ発生動向は、検査により(基本的に無症状で)HIV陽性と判定されたHIV感染者あるいは発症後に診断されたエイズ患者として、保健所を通じて厚生労働省に報告される仕組みである。平成21(2009)年6月17日付けで、平成20(2008)年の報告数が確定されたので、いくつかポイントを考えてみたい 1)。

感染の集中と増加
日本におけるHIVの流行は、血友病者の中の集団発生(1,439名が感染)として発見された。日本人血友病者の約3分の1が感染したと考えられている。血友病者の感染は、1970年代後半〜1980年代前半までに起こったと考えられている。1989年に民事訴訟が提訴された後、“薬害エイズ”として社会問題化し、1996年に国との間で和解が成立した。即ち、日本のHIV/AIDSは十数年前に、医療問題としてまずクローズアップされたわけである。

エイズ発生動向は1985年から発表されているが、血友病者の感染は含まれていない。10年ごとの報告件数を振り返ると、1988年37件(HIV感染23件、AIDS14件)、1998年653件(HIV感染422件、AIDS231件)、2008年1,557件(HIV感染1,126件、AIDS431件)と急速な増加を示している。2008年の報告数は、平均すると1日4.2件になる。一方、WHO/UNAIDS等の統計において、わが国は現在でも推計感染率(プレバレンス)0.1%未満のHIV低流行国に分類されている。推計値を算定するための根拠となる数字は乏しいが、2008年の報告数を単純に人口で割ると10万人当たり約1.2(0.0012%)となる(1,557/130,000,000=0.000012)。また、すべてHIVの検査が行われている献血血液の10万件当たりのHIV陽性件数は、2008年には2.107(0.002%)であった。一度陽性に出た献血者は除外されること、献血者が必ずしも一般人口を反映するわけではないこと等を考慮すると、この値をそのまま推計感染率とするには問題があるが、日本の一般人口の感染率は諸外国と比較して低い群に入る、と考えて間違いないであろう。

本号特集にもあるように、現在の日本で主要なHIV感染経路は性感染、特に男性同性間の性的接触である。東京都南新宿検査相談室では、男性同性間でセックスする人たち(MSM)の受検者数が年々増加し、HIV抗体陽性割合は1996年の1.6%から2002年には4.4%に達した 2)。大阪地域では、2000〜2002年の間MSM対象の啓発イベントとともに検査が実施され、延べ940人の受検者のうち2.3%がHIV陽性であった。特定非営利活動法人(NPO)CHARMが実施している大阪・土曜日常設HIV検査事業を受検したMSMでは、2004〜2006年のHIV抗体陽性割合が3.9%〜4.7%であった。名古屋地域では、2001年から7年間にわたってMSM対象のHIV抗体検査会が実施され、延べ2,671名のうちHIV陽性が2.6%(年別では1.2%〜4.5%)であった。いずれも同じような陽性率を示し、大都市圏でMSMに感染集中が起こっていることがわかる。先に述べた人口10万当たりの報告数や陽性数のデータとは、約100倍の開きがある。即ち、日本ではMSM の間で極めて集中的な感染が起こっている。

対策における当事者参加の重要性
HIV治療の歴史において革命的な変化がもたらされた時期は、“薬害エイズ”に関して原告団と国との間に和解があった頃と一致する。1995年に米国で3者併用療法が行われるようになり、HIV感染者の生命予後は劇的に改善した 3)。HIV感染血友病者が、文字通り命を賭して勝ち得たものは治療薬の早期承認であり、治療の改善であった。抗HIV療法は、その後曲折があったものの着実に進歩し、著しく改善されてきた。治療方法の改善に留まらず、更生医療(自立支援医療)など、治療へのアクセスの面でも著しい改善がもたらされたため、当事者の切実性が当時ほどではなくなってしまったのであろうか、様々な分野で当事者の声が鳴りを潜めてしまった、というのも今の日本の特徴であろう。

上に述べたように、現時点で日本のHIV感染はMSMに集中している。これほど流行が増加しているのに、マスメディアが注目を示さない理由として、(1)HIVはインフルエンザと異なり、自分で予防可能な感染症である、(2)感染の集中している人たちに焦点を当てすぎると差別を助長する、といった声をしばしば耳にする。HIVは、その感染経路の大部分において、確かに予防可能な感染症である。しかし、日本の大きな特徴として、小中高での性や性的指向、性感染症に関する教育が少なく、大学に入ると突然すべて放任されるという、環境があげられよう。MSM におけるHIV感染が着実・急激に増加している現状では、その知識や情報無くして飛び込むのは、はなはだリスクが高いといわざるを得ない。若者を中心に、セックスにアクティブな人たちに情報を発信する必要があるし、その対策は感染集中の起こっているところに向けられる必要がある。そのためには当事者の声と参加が不可欠である。“薬害エイズ”が社会問題化したピーク時には、厚生労働省のエイズ対策予算は100億円以上とも120億円だったとも聞く。2009年度の予算は80億円以下だそうである。これほど感染増加がある疾患に対して、これほど予算が削られているのは由々しきことである。金欠病の国の状態を考えれば、無い袖は振れないのが現実かもしれないが、予算は必要な対策に集中的に使わなければならない。そのためにも、現在の当事者が計画や対策実施に積極的に参画すること、できる環境を作ることを心から期待している。HIVのような感染症は、まず社会のマイノリティーをヒットする。HIVが加わるとそのマイノリティーの差別が助長される、というのが構図である。社会的なマイノリティーが、HIVの有無にかかわらず差別されない社会を常に目指す方向性を持つことでしか、(2)への現実的な改善は生まれてこないと思う。その意味でも当事者の声と参画は重要である。

今後何が重要か
2004年以降お隣台湾において、経静脈的薬物使用者の間でHIVの急激な流行が起こった。薬物使用者におけるHIV流行は、東欧やロシアで近年大きな問題となっているが、アジアでも中国雲南省やタイ、カンボジア、ミャンマーといった国々で以前から重要であった。近年でも、ベトナム、インドネシア、マレーシア等で感染者の増加があるところに、わが国に最も近く重要な地域である台湾で、最近になって集中的な問題が起こったわけである。薬物使用者の間でHIV感染が増加すると、一般社会への拡大も急速である。違法薬物の取り締まりに関与する機関も複数で、万一感染が広がった場合の対策は困難であり、一筋縄ではいかない。この原稿を書いている現在、芸能人等の薬物使用で国中が大フィーバーしているが、吸入薬物から経静脈的薬物使用への距離はそれほど遠くないというのが、台湾などからの教訓である。法を犯したものは裁かれなくてはならないが、違法なものは塀の向こうに送れば片がつく、といったやり方一辺倒では、対応しきれるわけがない。行政の中での話し合いを求めたい。

上に述べたように、HIVに対する治療は革命的に改善した。しかし、良い治療薬は高価であり、ひとたびアクセスが悪くなれば個人の治療環境はあっという間に過去の状態に転落する。HIVの予防が強化されるとともに、感染者への医療上の保障が担保されるべきである。そのうえで、HIV感染者の社会参画がますます推進されるよう期待する。

 参考文献
1)厚生労働省エイズ動向委員会「平成20年エイズ発生動向年報」、平成21年6月17日
2)市川誠一、IASR 29: 147-148, 2008
3)http://www.cdc.gov/hiv/topics/surveillance/resources/slides/mortality/slides/mortality.pdf

厚生労働省エイズ動向委員長
東京大学医科学研究所教授 岩本愛吉

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