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日咳の患者数は1947年から1950年頃までは毎年10万人を越え,その死亡率も約10%と,小児の重篤な疾患とされていたが,ワクチンの開発や抗生物質の普及等により,1965年頃には数百人と激減し,その撲滅もまじかなものと思われていた。ところが1974年から1975年に相次いで発生したワクチン事故を契機として,ワクチンの接種が中止され,それによると思われる流行が全国的にみられるようになってきた。群馬県においても,1975年から1977年にかけて,前橋,高崎の両市を中心とする潜在流行の報告があり,その実態を把握するため,百日咳菌の分離と抗体調査を行った。分離培地はボルデー・ジャング培地を用い,県内医療機関から依頼のあった百日咳を疑われる患者から咳つけ法により,百日咳菌の分離を行った。その結果,1976年から1980年までの5ヵ年間に調査した290件(同一人は1件と算定)中62件(21.4%)から百日咳菌を分離した。その分離頻度は流行最盛期年の1977年(30.4%)をピークとして,その後年々低下している。また年齢別分離頻度は0才〜2才までは各年齢とも約19%,3才〜6才では32.3%〜42.9%であったが,それ以降は加齢とともに低下した。しかし20才〜26才の成人からも本菌が分離されたところから,小児のみでなく成人でも罹患し,家族内感染が考えられた。次に咳つけ方法別分離頻度は,咳つけを医療機関で行い,直ちに当所に搬入培養したもの:18.0%,培養後,当初に搬入したもの:2.0%,患者と担当医が当所にら来所し咳つけを行ったもの:61.5%と当所で行ったものが最も高かった。このことから咳つけした平板の温度管理が非常に大切であることがわかった。次に,ある医療機関の協力を得て,鼻咽腔粘液及び鼻腔後部粘液の塗抹培養法と咳つけ平板法とで菌の検出率を比較すると鼻腔後部粘液が最も高く,鼻咽腔粘液,咳つけ平板法の順であった。次に,国立予防衛生研究所の佐藤勇治博士より分与された全国調査用統一抗原を用いて,患者の抗体価(凝集素価)を調べると1977年頃は流行株に対する抗体価がワクチン株のそれとほぼ同じか,やや高かった。しかし,1977年頃よりワクチン株及び流行株ともに抗体価は上昇したが,ワクチン株の抗体価の方が高く,ワクチン接種が再開されたことを示唆した。次に,県内各地より採取した健康者(0才〜14才)の血清を用いて,百日咳菌に対する抗体価を調べると,ワクチン株,流行株の平均抗体価は加齢とともに上昇した。また平均抗体価の地域差を検討すると,前橋,高崎の都市部で高く,農村部にいくに従って低くなる傾向を示した。また採取年度による平均抗体価の変化をみると,患者のそれと同様1978年頃より上昇し,ワクチン接種の再開が示唆された。
群馬県衛生公害研究所 鈴木ミツヱ
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