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1882年3月24日,ベルリン生理学会の席上,Robert Kochは結核症の原因を発見したと声明し,ひきつづいて3週後の4月10日には,「結核症の病原学」と題した論説を発表した。1884年,同じ表題の第2報において,彼は“Koch's postulate”(日本では一般にKochの3原則と呼んでいる)についてはじめて紹介し説明を加えた。そしてこれは以来すべての伝染病研究の基本となったのである。彼はすでに結核症のあらゆる症例において結核菌を観察しており,宿主の体外においてそれを発育(培養)せしめ,分離菌の純培養を感受性ある宿主に接種して結核症を再現していた。
Kochは治療薬の発見に希望をもっていて,結核症の研究を継続し,1890年には菌体由来物質としてツベルクリンの発見を発表した。彼はこの物質が試験管内でも動物においても,結核菌の増植を抑制し得ると考えた。このニュースは全世界にはかりしれない希望を与えたのであったが,それが程なく効果のない治療薬であることが判明したとき,人々は希望が幻影にすぎなかったことをさとった。しかし,このツベルクリンはのちに貴重な診断手段であることが証明されるに至る。
1905年,Kochがノーベル医学賞を授与された時,彼の受賞講演では結核症とその原因菌のより深い理解をすすめるべき点が強調された。1910年,彼は炭疽,コレラ,トリパノソーマ症,そしてとりわけ結核症に関する研究に由来する知識という貴重な遺産を,科学界,そして一般社会にのこして世を去った。
Kochの発見を出発点として,結核の征服をめざしてのそれ以後の進展は比較的緩慢であった。1885年にNocardは鳥型菌を認め,1898年にはTheobald Smithは牛型と人型の結核菌の区別を知った。これらは非結核の他の抗酸菌種の同定に関する基礎を築いた仕事であった。結核の診断は1882年のEhrlichによる結核菌の抗酸性の発見,1895年のRoentgenによるX線の発見,1907〜1908年のVon PirquetとMantouxによるツベルクリン皮内反応の開発,そして1931年のSeibertによるPPDの製造に負うところが大きい。
1930年代になると,Wade Hampton Frostの野外研究が結核症の疫学により深い理解を与えた。1940年代には,PPDを用いたマントー皮内反応とレントゲン検査の併用によって,米国のPublic Health Serviceは一連の研究を実施し,結核の疫学に更に寄与するところが多く,不顕性感染と臨床例との区別をあきらかにすることができた。
治療に関しては,安静,食事,新鮮な空気といった初期の段階から,人工気胸や他の肺虚脱療法そして肺切除の時代を経て,特異的化学療法の時代に移行した。ストレプトマイシンが1947年,PASが1949年,イソニアジッドが1952年,更に近年のリフアンピシンがつづく。これらの近代的な化学療法剤の併用を適切に投与して,結核症は現在ではほとんど100%治療しうるものとなった。
結核の予防に関しては,2つの方向で対応がなされてきた。CalmetteとGuerinが牛型抗酸菌の弱毒株を開発し,結果はまちまちであったが,世界各国でそれを用いてきた。もうひとつの方法は,まだ臨床症状の発現していない感染個体にイソニアジッドを発病予防の目的で投与するものであった。
結核制御の最近の進歩のひとつは薬剤投与を9ケ月にとどめる短期強化化学療法の開発で,更にこの期間を短縮する努力がつづけられている。蛍光顕微鏡の利用は喀啖からの菌の検出を迅速,かつ容易,そしてより正確なものとし,ファージ型別は疫学に資することになった。新しい免疫学的手法はよりすすんだ診断法を約束している。放射能を利用した結核菌同定や薬剤耐性検査の迅速法も開発されてきた。
Kochの発見100年にして,予防,診断,治療における進歩は,結核症の罹患率,死亡率の顕著な減少を先進国にもたらした。しかし,このような劇的な成果は開発途上国ではみられていない。結核症は依然として世界的規模の主要な保健問題としてありつづけている。毎年1,000万人が罹患し,そのうち400〜500万人が危険な感染源であり,200〜300万人が結核症で死亡すると推定されている。結核症の根絶は技術的な意味ではおそらく可能であろうが,現実にはいまだ捉えどころのない目標にとどまっている。
(MMWR,31,121-123,10,1982)
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