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Vol.3 (1982/9[031])

<国内情報>
マラリアの問題


 1959年から全世界的な規模で推進されたWHOのマラリア根絶計画(Malaria Eradication Programme,MEP)は,その周到な対策に当初は世界のマラリア問題は10年以内に終息するであろうと喧伝されるほど,各地で顕著な成果が評価されたといわれる。しかし,本計画も防遏作業が開始されてから約10年を経過するうちに,媒介蚊のDDTおよび他の殺虫剤に対する耐性獲得や生態変化,熱帯熱マラリア原虫の薬剤耐性株の出現とその分布域の拡散,浸淫地における対策人口を上回る人口の自然増加,世界的なインフレーションによる財政逼迫とMEP運営費の高騰,人材不足,企画の不備,当該国の衛生行政の貧困,流動的なマラリア流行相の変化に対応できる新しい防遏対策の欠如などの問題が露呈され,それに関連して1970年頃からは,いったん防遏に成功した多くの地域に流行の再燃がみられる事態を生じている。そのため,マラリアによる被害は年間1億2,000万の患者発生と100万の小児死亡を含む200万の犠牲者があるものと推定されるなど,最近における世界的なマラリア情勢の悪化は熾烈をきわめ,極めて憂慮すべき状況となっている。なお, 上記MEPの挫折を招来した各種要因をすべて排除しうる普遍的な解決策が見出せない現状では,必然的にMEPの再検討も余儀なくされ,その対策目標も従来の根絶(eradication)から大幅に後退させ,マラリアを公衆衛生上の問題にならない程度に減少させる予防(control)に修正すると同時により効果的な抗マラリア薬の開発と治療薬の再検討ないしは感受性者対策の強力な手段としての効果的,かつ安全域の高いワクチンの開発と実用化が期待される趨勢にあるのが実情といえよう。

 一方,既に述べたごとく,世界的に悪化の様相を呈しているマラリアは熱帯・亜熱帯を中心とする多くの地域を蹂躙し,そこに居住する世界総人口の52.6%の住民を常時,感染の危険に曝露し(WHO,1980),その健康に重大な支障をもたらしているにとどまらず,無マラリア諸国に対する輸入マラリアの温床ともなって,本症の防疫上新たな局面を展開するに至っている。例えば,土着マラリアの流行が終息し,現在,その発生がみられない米国,英国,豪州のほか,わが国にも一般の想像以上に多くの症例が存在することが明らかにされているが(表1),これらの諸国における近年の熱帯諸国との交流の増大を考えれば,そこで感染を受け,帰国後発症する輸入マラリアの増加が注目されるのは当然の帰結ともいえよう。また,これらの輸入マラリアは国際間旅行者だけの問題にとどまらず,欧米諸国やソ連では輸入症例に直接由来する輸血マラリアも少なからず存在し,米国では不潔な注射器を介して薬物中毒者の間に伝播した接種マラリアのほか,胎盤感染例の報告もあり,その状況はわが国におけるよりも欧米諸国においてより深刻である。いずれにしても,このような輸入マラリアの事態を重視したWHOは1973年以降,ほとんど毎年のごとく,あらゆる国際間旅行者に対し,マラリア感染の危険についての注意を喚起する通達を行っているが,これはとりもなおさず,本症の土着流行を認めない,わが国や欧米諸国に対する再流行防止の警告であり,とくに1979年の通告では,欧州・北米・日本における症例数と死亡例の増加の危険があることを強調している点は戒心を要するものがある。

 なお,輸入マラリアの重要性と危険性が提起されているにもかかわらず,わが国ではその実態が必ずしも十分に究明されていないのが実状である。例えば,筆者らが1972年から実施している実態調査によれば,毎年60例前後の患者発生が確認され,1981年までの10年間の症例数は629例に達したが,この数値は厚生省統計による333例と大きな開きがあり,1946年から実施されている伝染病予防法に基づく届出制度が必ずしも遵守されていないばかりでなく,その実態を正確に反映するものでないことが知られた。このことは,1959年の滋賀県での1例を最後にわが国では土着マラリアが完全に終息したとはいえ,現実の問題として輸入症例の増加傾向がみられる現状では,それに基づく二次的な国内伝播や輸血マラリア発生の可能性も否定できないため,不断の警戒体制を強化して患者発生の実態を円滑に把握するとともに感染および輸入症例の防止に万全の対策を講ずる必要がある。

 また,マラリアは早期診断に基づく適正治療によって比較的容易に治癒しうる感染症であるが,現在のわが国では本症に対する認識が比較的低く,その結果,不測の転帰をとる症例も少なくない。しかし,本稿では与えられた紙面の関係上,最近10年間の患者発生状況(表2)とわが国における輸入マラリアの問題点を次に列挙するにとどめたい。

1)マラリア発生状況に関する情報が行政レベルで正確に把握されていない。従って,不断の警戒体制はもちろんのこと,passive case detectionによる届出制度によって患者発生の実態を把握できないとするならばactive case detectionの方策も検討する必要がある。

2)土着マラリアのみられない現在のわが国では,本症に対する一般医家の臨床経験不足から輸入症例に顧慮を欠く場合が少なくない。従って,その診断,治療に習熟する必要がある。

3)わが国では,熱帯熱マラリアによる脳性マラリア,急性腎不全などの悪性合併症の発見頻度及び死亡率が欧米に対して高い。そのため,これらの重篤な合併症に対する臨床的管理の方策または標準療法を早期に確立し,医療従事者に徹底する必要がある。また,重症例に対する抗マラリア薬の非経口投与法に関する基礎的研究が必要である。

4)1981年8月から厚生省研究事業に基づく治療用抗マラリア薬の確保と供給システムが確立されたが,従来のわが国では各種抗マラリア薬の入手は困難であった。

5)原虫の顕微鏡的証明が困難なlow parasitaemiaの場合の検査機関がない(例えばIFA,IHAなどの免疫学的検査。これは,輸血マラリアの防止に重要な意義をもつ)。

6)原虫の薬剤耐性試験を行う公的機関がない。

7)予防内服の有効性,とくにその安全性に対する基礎的検討が未確立である。



岐阜大学医学部寄生虫学教室 大友 弘士,日置 敦已


表1.1979年における主要国の輸入マラリア症例
表2.1972〜1981年における年次別マラリア患者数





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