狂犬病の病理と病態―免疫組織化学の必要性

(Vol.28 p 73-74:2007年3月号)

わが国の狂犬病例は1956年のヒト症例、1957年の動物以来なく、ネパールで咬傷をうけ帰国後発症し死亡したヒト輸入例が1970年にあった。それ以来、フィリピンで犬に咬傷を受けて国内で死亡した今回の京都や横浜の事例は36年ぶりである(本号3ページ4ページ)。わが国の周辺国で狂犬病が問題となっていることから、新興・再興感染症としての狂犬病の重要性を鑑み、岩崎らが中心となって抗狂犬病ウイルス抗体を作製し、狂犬病の免疫組織化学を確立してきた1)。2004年および2005年には臓器移植例での発生が米国2)とドイツ3)で報告され、臓器移植関係者で話題になった。その際に改めて1970年の症例の剖検材料を免疫組織化学で検索し、HE染色による病理組織学的検索よりも免疫組織化学による検索がはるかに有効であることを痛感した。現在も、感染病理部と獣医科学部によってヒト狂犬病の免疫組織化学による病理組織診断系の開発研究は進められている。

1970年の症例では、大脳の神経細胞や小脳のプルキンエ細胞の細胞質内に好酸性のネグリ小体がみられたものの、中枢神経系には神経細胞の変性像や血管周囲性炎症性細胞浸潤はみられなかった。しかしながら狂犬病ウイルスのNP蛋白に対する抗体を用いた免疫組織化学では、中枢神経系の神経細胞のほとんどで、ネグリ小体を含め、細胞質内にNP抗原陽性の粗大顆粒が数多く検出できた(図1)。さらに副腎の髄質や唾液腺の神経叢にも陽性であった1)。わずかにみられるネグリ小体以外、ウイルス性脳炎に特徴的な病理組織所見をほとんど欠いているのが狂犬病例の病理の特徴であった。

今回の症例では、京都例では生前に後項部の髪の生え際の皮膚をパンチ生検した。ホルマリン固定後のパラフィン切片で、真皮内や毛嚢および汗腺周囲の有髄神経に狂犬病ウイルス抗原を検出した(図2)が、その末梢神経に組織変化はない。横浜例でも剖検時に同じ部位から採材し、同様の所見を得た。これが狂犬病の生前の病理組織診断として唯一の方法で、神経向性のある狂犬病ウイルスを神経組織内で検出できたことから、PCR 等の核酸診断とは異なり、説得力のあるデータになると考えられた。この方法でウイルス抗原を検出できる感度は60〜100%と報告されている。とくに今回は、迅速包埋法と迅速免疫組織化学法を行ったため、ホルマリン固定組織からウイルス抗原検出までおよそ6時間で診断ができ、唾液からのRT-PCR法の検出時間全体と大差はなかった。迅速な病理組織診断は遺伝子診断と同等の強力な狂犬病診断ツールである。抗原診断・遺伝子診断により、狂犬病が診断された後は、ウイルス分離とウイルスの塩基配列解読を行い、患者の疫学的情報と合わせて輸入感染症としての最終的な確定が行われることになる。

狂犬病のヒト剖検例の報告は思ったよりもはるかに少ない。免疫組織化学による検討では最近のものしかない2, 4) 。有効な狂犬病ワクチンがあること、剖検施設が利用しにくい土地での狂犬病死亡例が多いこと、特異抗体を保持している施設が少ないこと、さらに唾液検体のRT-PCR法による生前診断が行われ、剖検の意義が低いと考えられているのかもしれない。今回の京都や横浜の症例では家族を含め多くの方々のご協力をいただいて剖検が行われ、確定診断に至った。肉眼的な所見はほとんどなかった。詳細は別途報告されると思われるが、組織所見の概略は1970年の症例と類似している。すなわち、狂犬病ウイルスによると考えられる組織所見としては、脳幹部に軽度の血管周囲性炎症性細胞浸潤と大脳皮質の神経細胞細胞質内のネグリ小体の存在である。ネグリ小体は場所や症例によっては稀であった。一部で副腎髄質に炎症性細胞浸潤がみられた。免疫組織化学では、大脳、小脳、脳幹、延髄、脊髄といった中枢神経組織内の神経細胞と一部のグリア細胞、下垂体後葉、視神経、三叉神経節、脊髄神経、各臓器に分布する神経線維と臓器内神経叢、副腎髄質、皮膚末梢神経と、驚いたことに、ほとんどの神経組織内に狂犬病ウイルス抗原が検出できた。ウイルス抗原が陽性となった組織の変化はない。唾液からはRT-PCR法でウイルスが検出できることから、顎下腺の細胞や導管上皮細胞に感染細胞がみられることを期待したが、導管周囲の神経叢がわずかに陽性であったものの、ほかの細胞にはみつからなかった。一部の心筋細胞、舌の横紋筋細胞に抗原が陽性であった。これらの所見は報告4)と矛盾しない。

狂犬病は、狂犬病ウイルスに感染した犬やコウモリなどから手足の末梢部に咬傷をうけて、唾液内のウイルスに感染し発症する。咬傷部位でウイルスが増殖し、筋紡錘や神経終末部から神経線維内に侵入する。神経の軸索をおよそ3mm/hrの速度でシナプスを越えて脳内へ伝播する。この間は潜伏期(通常は20〜90日)にあり、液性抗体から隔絶されている。脳内の神経細胞で増殖したウイルスは遠心性に知覚神経ないし自律神経を伝って各臓器組織に広がるとされている。発症してからウイルスが全身に広がるのが早いという印象がある。神経細胞に形態変化を認めがたいことから、感染細胞は機能障害を起こすと考えられる5)。これが臨床症状の原因と考えられるが、その詳細は明らかではない。

狂犬病はもっとも古くから知られた感染症である。ごくわずかな例を除いて、発症したらすべてが死亡するという、もっとも致死率の高いウイルス感染症である。感染予防や曝露後免疫に使われる狂犬病ワクチン接種は効果的であるが、ほかの治療法をみつけるためにも、剖検例から得られるデータは貴重なものとなる。その点、剖検の意義はいまでも高い。

 文 献
1) Inoue S, et al ., Pathol Int 53: 525-533, 2003
2) Srinivasan A, et al ., N Engl J Med 352: 1103-1111, 2005
3) Hellenbrand W, et al ., Euro Surveill 10: E050224.6, 2005
4) Jackson AC, et al ., Lab Invest 79: 945-951, 1999
5) Jackson AC, J Neurovirol 9: 253-258, 2003

国立感染症研究所感染病理部
佐多徹太郎 長谷川秀樹 飛梅 実 佐藤由子 片野晴隆 中島典子

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