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Vol.15 (1994/11[177])

<国内情報>
クリプトスポリジウムによる集団下痢症発生事例−神奈川県


 神奈川県内で,クリプトスポリジウム(以下Cr)感染により400人を越える下痢症患者が短期間に発生する事例があったので報告する。

平成6(1994)年8月30日〜9月10日にかけて,某市内の雑居ビルにおいて従業員や客などから下痢や腹痛を訴える患者が現れた。症状は下痢,腹痛,発熱,嘔吐などであり,患者の発生状況からビルの飲料水の関与が疑われ,患者の便,血清とともに受水槽等の水を検査材料として微生物学的検査を実施した。その結果,既知の病原細菌および病原ウイルスは検出されなかったが,今回経験した事例で検査検体として供された25件のうち12件(48%)の便からCryptosporidium parvumのオーシストが検出された。飲料水受水槽とそれに隣接して設けられている雑排水槽,湧水槽および汚水槽と水道水の各水の沈渣の検査を大阪市立大学医動物学教室に依頼し,いずれの検体からもC. parvumのオーシストが検出された。

 このビルは地上6階,地下1階から成り,居酒屋やスナック等の飲食店が10店舗とそれ以外の1店舗と2事業所が入っている。客などを含めたビルの関係者として把握できたのはこれまでのところ736人であり,このうち461人(うち入院5名,受診77名)が下痢や腹痛などを訴えていたことが確認された。ビルの地下1階に受水槽と隣接して雑排水槽,湧水槽,汚水槽が設置され,受水槽の上部には使途不明の穴が開けられ,雑排水槽や湧水槽に通じているという構造上の欠陥があり,この穴を通して汚水や雑排水が受水槽に混入していたことが強く疑われた。一方,1階の1店舗と1事業所の水道は水道管に直結していたため,下痢症患者は出なかった。

 Crはコクシジウム類に属する腸管寄生原虫で,C. parvumは小腸粘膜上皮細胞の微絨毛内に寄生して増植する。オーシストは直径5μmほどで,ほぼ球形である。便とともに対外に排出されたオーシストは感染性を持ち,経口的に摂取されると感染が成立する。宿主域は極めて広く,ヒトをはじめイヌ,ネコ,ネズミ,各種家畜などの哺乳類や鳥類,爬虫類,魚類などである。Crは1907年にマウスでの寄生が記載されたのが最初だが,ヒトでの寄生が報告されたのは1976年で,比較的最近になって注目されるようになった病原体である。ヒトの感染源としてウシ,ウマ,ネコなどからの感染例が報告されている。また,ヒト間の感染もあり,家族内感染,病院内感染,託児所内感染が諸外国で報告されている。水道を介した感染もあり,1993年に米国のミルウォーキーにおいて,浄水場の濾過機能の低下により推計403,000人が感染した事例がある。

 Cr症の主な症状は下痢,腹痛であり,その他に嘔吐,嘔気,倦怠感,発熱などである。初感染の場合症状は重く,また成人よりも小児のほうが感受性が高い。免疫機能が正常であれば,2週間ほどで自然治癒するが,免疫不全の場合は症状は長期間続き,年余にわたることもあり,致死的なこともある。治療薬として様々な薬剤が試されているが,いまだに有効な治療法は確立されていない。

 海外の衛生状態の悪い地域では感染率は高い傾向にあるが,先進国においても下痢,胃腸炎で入院している患者のほぼ2〜5%でCrが検出されている。英国での急性下痢症患者の調査では,サルモネラと同程度に見出だされ,赤痢菌のほぼ3倍の検出率であった。一方,国内でのヒトのCr症の報告は下痢症患者などについて散発的に行われているにすぎず,実態はほとんど明らかになっていない。

 海外の事例からすれば,国内においても多くの感染例が存在するはずであり,原因不明とされた下痢症の中にはCrなどの腸管寄生原虫によるものが多数含まれている可能性が高いことが十分予想できる。わが国で実態を把握できないのは,Crが臨床医にほとんど注目されず,原因不明下痢症はウイルス性で片付けられ,原虫を対象にした検査がほとんど行われていないことに起因している。

 Crに対して下痢症,特に小児下痢症,渡航者下痢症,免疫不全者の下痢症の原因病原体として注意を払うべきであり,また感染動物や感染者との接触や水を介して比較的容易に,しかも同時に多数が感染する可能性があることを十分念頭に置くべきである。その上で,下痢症の病原体検索に原虫検査を取り入れ,日常的に実施できる態勢を早急に確立することが必要である。



神奈川県衛生研究所 黒木 俊郎





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