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広島県はもともと腸チフス罹患率の高いところであるが,1975年12月末以来,瀬戸内海に浮ぶ風光明媚なK島(K町)のたがいにかなり離れた限局的な2地区(M地区:人口約1,500;K地区:人口約750)で散発的とはいえ腸チフス患者が毎年連続して発生し,しかも広島県の患者の冬期集中化のパターンとはまったくはずれた,季節とは無関係な発生であった。都会とは異なって,飲用水は一部の上水道敷設地域以外は小規模な共同井戸あるいは谷川から各家庭に供給されており,また屎尿は大部分が自家処理(裏山への投棄)という半ば閉鎖的な半農・半出稼ぎ地域である。
1978年末までに臨床決定2名を含む患者7名の発生があり,家族検便で保菌者1名が発見された。分離菌はすべてファージ型M1型であった。そこでまず罹患率が69と算出されるM地区の住民全員について1979年1月から6月にかけて検便が実施された。その結果,魚屋の主婦を含む3名の無症状排菌者が発見された。いずれも地元土着の老齢の女性であり,排出菌はすべてM1型であった。
この検索によって一応鎮静をみるかに思われたが,それからも前記の両地区での患者の発生が続くところから,1979年10月に両地区の全住民の検便(K地区では連続2回)が行なわれた。そこで新たに4名の排菌者が発見され,その3名までがM1型の無症状排菌者であった。したがってM1排菌者は前回の検便分と合わせて6名に達した。
一方,1979年の患者の発生は両地区で12名にものぼり,いずれもM1型菌によるものであった。K地区では10月の豪雨の10日後頃に患者が集中的に発生したことから,飲用水汚染がその因として疑われたが,頻回の検査でSalmonellaは分離されても腸チフス菌はまったく分離されなかった。この10月を中心とした患者の発生と住民の一斉検便の時期がたまたま一致したこともあってか,1979年12月にM1型菌による患者1名の発生をみて以来,1980年6月までは平穏無事に経過した。保菌者検索の効まさに大なりと喜こんでいたのであるが,6月に入ってM1型患者3名(M地区2名,K地区1名)の発生をみた。そこで急遽6〜7月にM地区の40歳以上の住民(約850名)について2回連続検便が実施された。しかし残念ながら排菌者の発見にはいたらなかった。さらばと1980年10月にM,K両地区の全住民についての一斉検便にふみきり,現在進行中であるが,一名の排菌者が発見されている。なおこれまでの患者発生は複数の無症状M1型菌永続排菌者による偶発的な接触感染が主因ではないかと推察されるが,感染経路は依然として不明である。
研究サイドからみた経過は以上のとおりであるが,患者発生にともなう家族検便や食品業者検便をも含めると10回を越える検便を受けた住民もあり,この一斉検便は事前に趣旨説明がなされていたとはいえ,住民に強い恐怖感と嫌悪の念を植えつける結果となった。除菌すれば「タダのヒト(健康者)」といくらいってみたところで,病人でもないのに何で隔離や?という強烈なパンチがはね返ってくるのみである。検便自体はわたくしたちにとって苦になるほどの業務ではない。しかし住民全員の便を確実に短期間に集めるという作業には筆舌に表しがたい困苦がつねにつきまとうものである。町当局,所轄保健所,県庁主管課の労苦のほどがしのばれる。腸チフスの根絶には住民の衛生教育が実り,行政と住民の信頼関係の確立なくしては不可能であるということを痛感したしだいである。なお6月以来この10月現在まで幸にも患者の発生をみていない。
広島県衛生研究所 西尾 隆昌
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