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1980年1月1日は,スコットランドにおける獣疫制圧史の画期的な一時点となった。State Veterinary Serviceによって組織されたウシのB.abortus感染根絶運動は,ついに12年の活動に終止符をうって,その目的達成を宣言したのであった。この運動の重要性は,結核牛疫,鼻疸に対するそれに比肩するものであって,ヒトへの感染源を保有するものであるだけに,公衆衛生上の意義も大きい。
ウシのブルセラ症は流産,牛乳生産減少,不妊などを惹起し,経済上の大きな損失を招くのみならず,生の牛乳を飲む人や,ウシに直接触れる人に感染して職業病を誘発する。
ウシの流産は19世紀にはごくありふれたことであったが,それがヒトの公衆衛生に重要なかかわりをもつことは,今世紀のはじめ頃までは,はっきりと認識されなかった。
1933年にブルセラ根絶のこころみが多少実施されたが,それも世界大戦によって中断し,また戦後は,政府は主としてウシの結核撲滅の方に力を集中し,ブルセラ根絶における問題点に関心をむけたのは1960年代になってのことであった。酪農場における乳牛由来の感染について全国的調査がなされた。その結果,25〜30%の酪農場が感染牛をもち,国立酪農場の2.1%も感染をうけていると推定された。1964年農業省によって実施された血清疫学調査は,生後20ヶ月以上の年令ウシの14%が,この血清診断テストをパスできないことを示した。こうした調査の上に立って,そのまま不良牛を処分する政策をとっては,牛乳や牛肉の流通組織と市場価格を破壊することになる。そこで,1967年になってからはじめて,本格的な根絶運動が出発し,まず,のぞかれる乳牛の代替を供給するための準備として,感染のない酪農場を指定確保する努力がなされた。1970年には,刺激的な計画が導入され,自己の酪農場からブルセラをなくする活動に同意した農家に賞与金を出すことになり,さらにすすんで1971年には,ブルセラ地区根絶法が公布された。この法令は,Argyll,Western Isles,Shetlandの3地区をカバーし,強制根絶措置のはしりとなった。そしてこの根絶目標地区は,ほぼ6ヶ月毎に次第にその数をまし,1976年には感染牛をもつスコットランドの全地区に及んだのである。そして,活動性感染と酪農場の傷害度についての規準を設けて,その規準にてらして根絶へのランクづけを行った。かくして,根絶の証明をうけた農場がはじめてでたのが1975年であり,最後のものが1980年1月1日であった。
予防接種も感染の重症度を軽減するためにある程度の役割りを果したが,この運動期間の後期には,血清反応調査が混乱する理由からかなり制約をうけることになった。ワクチン株としては,1941年に米国でつくられた弱毒性菌によるワクチンが使用され,1960年前半までは毎年百万ドーズも接種されたが,根絶計画が成功するにつれて,その必要性が減少し,1976年と1979年の間に次第に姿を消した。
(WHO.W.E.R.No.40,3,Oct.1980)
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